箱はマのつく水の底!  喬林知==著  本文イラスト/松本テマリ  おれの|魂《たましい》は、|誰《だれ》のもんなの?      1  助けて、この子をどうか助けて。  神よ、ようやく|授《さず》かった|息子《むすこ》を、|何故《なにゆえ》私の|腕《うで》から取り上げようとなさるのですか?  私にはこの子達しかないのです。私には|貴方《あなた》と、この子達しかございませんのに!  悲しい夢を見た。自分では|眠《ねむ》ったつもりはなかったから、情ない話だが知らないうちに気を失ったのだろう。後ろ姿の若い女性が、地面に|膝《ひざ》をついて泣き|崩《くず》れている光景だった。胸に|赤《あか》ん|坊《ぼう》を|抱《だ》きしめているらしく、上半身を丸めるようにしていた。  おれの知り合いに病気の子供を持つ女性はいないから、テレビか映画で見た映像が|記憶《きおく》のどこかに残っていたのかもしれない。とにかく悲しい、胸の痛む夢だったのだが、|薄情《はくじょう》なことにおれは同情も、もらい泣きもせず、ただ|黙《だま》ってその女の人を|眺《なが》めているだけだ。  何しろこっちは|渇《かわ》き切っていて、|涙《なみだ》どころか|汗《あせ》も出ない状態だ。もう何日も飲まず食わずなのに、夢のために泣いてやる|余裕《よゆう》などない。  昔は夢と現実の区別がつかず、|怪物《かいぶつ》が|襲《おそ》ってくると言っては親のベッドに|潜《もぐ》り込み、誰かがいなくなってしまったと言っては兄の部屋のドアを|叩《たた》いたものだったが、今は|違《ちが》う。そんな年代はとっくに過ぎているし、幸か不幸かこの場には泣きつく相手もいない。  お|陰《かげ》でまったく無感動に目を覚ませた。午後の授業で居眠りをした後みたいに。  涙を流すどころか体中の水分が不足していて、|瞼《まぶた》を持ち上げるのさえ|辛《つら》かったほどだ。 「ああよかった、気がついたね」 「……サラ?」  だから最初は声しか聞こえなくても不安にならなかった。眼球の表面が|乾燥《かんそう》しすぎているから、視界が明るくならないのだと思った。パソコン|漬《づ》けの兄貴がひーひー言ってたけど、|成程《なるほど》ドライアイってこんなに大変なものなんだなあと、その程度にしか思わなかった。  |拳《こぶし》で強く|目頭《めがしら》を|擦《こす》る。 「どれくらい、眠ってた?」 「そう長い時間ではないよ。ああユーリ、そんなに乱暴にしたら……」  だがどれだけ擦っても、いつもの視力は|戻《もど》らない。  何も見えなかった。 「あまり擦ってはいけないよ」  サラレギーに|触《ふ》れられてようやく気付いた。  そうだ、見えなくなったんだ。 「……サラ、ここどれくらい暗い?」 「難しいことを聞くね」  それでも彼はうまく答えた。 「月のない夜よりは少し明るいよ。さっき通り過ぎた|天井《てんじょう》の穴からの光が、まだ少しは届いているから。わたしにはあなたの顔が見えるけれど、|普通《ふつう》の視力なら人がいるってことくらいしか|判《わか》らないかな」  そう言われて顔を上げても、おれには|輪郭《りんかく》さえ見えなかった。自分が目を開けているのかどうかも断言できない。ただ、サラレギーがどこにいるのかは判る。右手を|斜《なな》め前に|伸《の》ばして、指先が届く場所に立っているはずだ。声の聞こえる方向というぼかりではなく、息づかいや空気の|揺《ゆ》らぎから何となく|把握《はあく》できるのだ。  不思議な感じだ。  見なくても、触れなくても彼のいる位置が判るのは、実に不思議だった。  見えていたものが見えなくなるのは、|恐怖《きょうふ》だ。|恐《おそ》ろしかった。まず|身体《からだ》を囲む四方に何も存在しなくなったように感じ、自分がまるで真っ暗な宇宙空間にでも|浮《う》かんでいるように思える。実際に周囲は暗く、|足下《あしもと》さえ|覚束《おぼつか》ない。一歩動けば|深淵《しんえん》に落ちて二度と|這《は》い上がれないかもしれない、そう思うと指一本動かせなくなる。  |鼓動《こどう》が早まり、息が苦しくなった。いくら吸っても酸素が足りない。脳まで血液が届かずに、思考が停止して気が遠くなる。前のめりに|倒《たお》れかけるが|慌《あわ》てて|踏《ふ》みとどまり、|堅《かた》い土の上に両膝をついてしまう。ついてしまってからようやく気付く。  地面がある。  おれは空間に浮かんでいるわけでもなく、少し動いたからといってすぐさま落ちるわけでもない。  そしてやっとこう思えるようになる。  たとえおれには見えなくても、物質の|全《すべ》てが|消滅《しようめつ》したわけではない。  周囲には空気があり、足下には大地がある。おれは生きて呼吸をして身体を起こしているのであって、死んで横たわって魂が|抜《ぬ》けて浮かんでいるわけではない。たとえ見えていなくても、手を伸ばせば石の|壁《かべ》に触れるだろうし、耳をすませば風の音も聞こえるだろう。  つまり世界は今までどおりというわけだ。変わったのは周りではなく自分のほう。  それを裏付けるように、空気の束が身体の横を通り抜けていった。これが風と、その音。おれは記憶に焼き付けた。そして|乾《かわ》いた気体に|頬《ほお》を|撫《な》でられる|感触《かんしょく》。これも覚えた。  とにかくそうして一つ一つ|確認《かくにん》していくしかなかった。恐る恐るでも前に進むためには、おれ以外のものは今までどおり存在するのだと|納得《なっとく》させるしか方法はなかったのだ。  視力の大半を失ったと知ると、サラレギーはおれの|肩《かた》に手を置いて言った。 「見えないの?」  彼の冷たい指が、そっと頬に触れる。 「本当に?」  |湿《しめ》った土の|匂《にお》いがした。 「天井に地上へ通じる穴があるよ。素手では登れる高さではないけど……それも見えない?」 「白い円が……ぼんやりとしか……」 「あんなに明るいのに!」  彼はおれの首に両腕を回し、勢いよく抱きついてきた。顔と耳に|髪《かみ》が触れる。 「|可哀想《かわいそう》にユーリ! 立て続けに色々なことが起こったから、心の|均衡《きんこう》が乱れてしまったんだよ。重圧に|耐《た》えきれなかったんだ」 「えーと、つまりストレス? ストレスか……そうかな、本当に。ストレスで目が見えなくなるもんかな……」 「大変なことが起こって、あまりに|衝撃《しょうげき》が大きいと、たとえ肉体的には|怪我《けが》をしていなくとも身体に変調をきたすと昔聞いたよ。きっとそれだと思う。だってあなたはどこも怪我をしていないもの。少し|擦《す》り|剥《む》いたくらいで、頭を打ったりはしていないでしょう? ……あの男は、死んだけれども」  あの男は。  音が聞こえるかという強さで、心臓が|締《し》めつけられた。 「でもあなたは生きてる」  なのにおれは生きてる。 「|大丈夫《だいじょうぶ》、治るよ。時間が必要かもしれないけど。どうせ地下にいる間は視力なんか役に立たないのだから、見えても見えなくても変わりは……ユーリ!?」  彼の言葉が終わる前に、おれは立ち上がり、歩き出した。見えなくても構いやしない、どうせ|闇《やみ》の中だ。どうせ何もかもが闇の中なんだ。片手には壁が続いている。岩と土の混ざった感触が|掌《てのひら》にある。迷うも何もこの壁に沿って進むしか道はない。  ここを|脱《ぬ》けるには、歩くしかないんだ。 「ユーリ、危ないよ、ユーリ!」  |幾《いく》らか進んでから不意に止まり、右肩を|岩壁《いわかべ》についた。|両脚《りょうあし》が身体を支えられなくなり、無様にしゃがみ込んだ。  |疲《つか》れ果ててそのままウトウトし、そして、短い間にあの夢をみた。 「サラ」 「なに?」 「夢をみたよ」  どんな、と|訊《き》き返してはこなかったが、彼の姿は想像できた。口を閉じ、|僅《わず》かに首を|傾《かたむ》けている。 「女の人が泣いてる夢だった。|赤《あか》ん|坊《ぼう》を|抱《だ》いた女の人が、神様に|祈《いの》りながら泣いてた。|息子《むすこ》を助けてくださいって。きっと子供が病気なんだ」 「ふうん」 「おれは後ろ姿を見てるのに、何もしてやらないんだ。声をかけることも、|慰《なぐさ》めることもしない。|一緒《いっしょ》に泣きも祈りもしない。|嫌《いや》な|奴《やつ》だと思うけど、ただ黙って見てるだけだ。目が覚めても、ああ夢でよかったとも思いもしない。|酷《ひど》い夢だったな、おれにとっても、あの女の人にとっても……でも、今になって思うんだ」  おれは座り込んだまま、|抱《かか》えていた|膝《ひざ》をゆっくりと伸ばした。足の裏が地面を擦っていく。 「現実も酷いな」  |喋《しゃべ》る|度《たび》に|渇《かわ》いた舌と口の|粘膜《ねんまく》が引きつって、血が出るかと思うほど痛かった。だが身体以上に心が渇き、生きる気持ちが|途切《とぎ》れそうだ。  歩き過ぎて|靴底《くつぞこ》が|薄《うす》くなったのか、小石の|凹凸《おうとつ》が今まで以上に伝わってくる。 「目が覚めてみると、こっちのが酷いような気がするよ。あの女の人には悪いけど、おれにとっちゃあっちが現実で、こっちが夢だったほうがいいかもな」  だっておれにはあの人の背中が見えていたんだ。赤ん坊を抱いて泣き|伏《ふ》す後ろ姿が、両方の|瞳《ひとみ》に映っていたんだ。目が見えていた。そして死にかけていたのは彼女の息子で、おれの仲間じゃない。たとえ神様とやらが願いを|叶《かな》えてくれなくても、死ぬのはあの赤ん坊で、おれの仲間じゃない。  彼ではない。 「……なんてこと考えてる」  おれは夢の中で彼女がしていたように上半身を丸め、両手で顔を|覆《おお》った。乾いた土と、鼻を|突《つ》く|錆《さ》びた鉄の匂い。身体が重い。水など|一滴《いってき》も飲んでいないのに、まるで雨に降られてずぶ|濡《ぬ》れになった後みたいに|怠《だる》かった。 「最低だ。頭だけじゃない、ここまでやられてるよ」  胸を|拳《こぶし》で|叩《たた》いた。|緩《ゆる》く|握《にぎ》った指の第二関節に、それでもしぶとい鼓動が伝わる。仲間を殺してまで生き延びている心臓だ。 「気持ちまでやられてる、|腐《くさ》ってる」 「そんなことはないよ、ユーリ」  言葉はとても|優《やさ》しかったが、語調はこちらが首を|傾《かし》げるほど苦い。 「……そうだったらどんなに楽か」 「え?」  おれが聞き返すより先に、サラレギーは立ち上がった。体温を帯びた空気が動き、気配が|離《はな》れる。そして|如何《いか》にも危機を察知したという声で、短く言った。 「何か来る」 「何かって、何かじゃ|判《わか》らない」 「動いてる、生き物だと思う」  地面についたおれの|皮膚《ひふ》からは、|微《かす》かな|振動《しんどう》しか伝わってこない。  匂いも風も熱も流れてこないのに? 「鳥か|蝙蝠《こうもり》……伏せて!」  サラレギーはおれの背に手を|伸《の》ばし、岩と小石の混ざった路面に押しつけようとした。だがおれは身を|振《よじ》って彼の手から|逃《のが》れ、壁を離れて地下通路の中程まで出て行った。ろくに立てもせず、歩けもしないまま、犬みたいに手と膝だけで這いだした。  |臑《すね》の下には先程と変わらず、微かな振動があるだけだ。 「来い、来いよ!」 「ユーリ!」  サラが|叫《さけ》んでいる。おれの名前を呼ぶ前に小さく舌打ちした。 「鳥だか蝙蝠だか知らねえけど、来ればいい! ぶつかればいい!」  おれは通路の中央に立ち、両腕を広げた。すぐに立っていられなくなり膝をつくが、ぽっかりと口を開ける|暗闇《くらやみ》に向かって叫んだ。 「来い! どうせ|避《よ》けられやしない、どうせ見えやしないんだからな!」  風を切る短い音がして、|頬《ほお》を熱い物が|掠《かす》めた。  痛みが広がるのは|一拍《いっぱく》遅《おく》れてからだ。  馬が|噺《いなな》き、|前肢《ぜんし》を宙に|浮《う》かせたので、ウェラー|卿《きょう》コンラートは|手綱《たづな》を握り直し、前を行くへイゼル・グレイブスに|尋《たず》ねた。 「今のも?」 「|地震《じしん》だろうね。乗って|揺《ゆ》られてるだけのあたしたちには判らないが、大地に|脚《あし》をつけてる動物は|敏感《びんかん》なものさ。自分が走っていようが止まっていようが、ちょっとの変化も見逃さない」 「この国に地震が多いとは聞いていなかったな」 「多いという|程《ほど》でもないさ、そんなに大きくもないしね。こんなの石造りの都会に居りゃあ気付かないくらいの揺れだろう。王都の住人なら知らないことだよ」  彼等は都市を|発《た》ち、馬を連ねて、もう五日近く|砂漠《さばく》を旅していた。  |見渡《みわた》す限り黄色がかった白だ。砂とも呼べない|乾燥《かんそう》した土の上を、五頭の|牡《おす》馬で進んでいる。ウェラー卿とベネラことヘイゼル、それに彼女の仲間が三人だ。本来なら全速力で|駆《か》けたいところだが、|替《か》えの乗り物なしでは無理がきかない。自分達よりも馬を|気遣《きづか》い、余力を残して、|騙《だま》しだまし前進するしかないのだ。  それでもユーリたちに追いつくにはまだかかるという。徒歩と|騎馬《きば》であるにもかかわらず、先行する三人になかなか追いつけないのは、|迂回《うかい》する地点がやたらと多いせいだ。直線|距離《きょり》で進む分、地下通路は早い。  |振《ふ》り返ってももう王都は見えず、前後左右を見回しても、目標となりそうなものは何一つない。 「あの子を案じているね」  ヘイゼルが速度を落とし、馬を並べた。 「危険な地下通路だと聞けば、案じもする」 「だったらどうして一人で行かせたりしたんだい。|恐《おそ》ろしい場所だと言っておいたはずだよ」 「一人では……」 「そうそう、あのフェンウェイパークの四番みたいな男が一緒だっけ。だけど後になって心配するくらいなら、|縛《しば》り付けてでも手元に置いておけばよかったんだ。あたしならそうするよ」  ヘイゼルは頬の|皺《しわ》を深めて笑ってみせた。 「もっともあたしの孫はとんだやんちゃ|娘《むすめ》で、縛った|縄《なわ》ごと駆けだしてしまうような勢いだったがね。それでも独り立ちさせる時には、あたしなりに気を遣ったもんだけど、本当のところあの子はもう何もかも自分で片を付けられたんだ。あたしの用意した相棒なんて、必要ないくらいだったのさ。けどあれはあれで非常口代わりの役には立ったと思うよ。前もって|脱出《だっしゅつ》口を確保するよりも、前進するほうがずっと得意なタイプだったからね」 「エイプリルは|聡明《そうめい》でした。箱の始末もきちんとつけた」 「じゃああんたの|主《あるじ》は、聡明じゃないとでもいうのかい?」 「それは……」  コンラッドは言葉に|詰《つ》まった。彼にとってユーリは特別だ。|誰《だれ》と比べても|劣《おと》るところなど見当たらない。比べること自体が不敬だとも思う。現にユーリは……彼の最愛の主は、自分が|離反《りはん》してからも|充分《じゅうぶん》すぎるほど立派にやっている。  |一癖《ひとくせ》もふた癖もある臣下達を束ねて、|滞《とどこお》りなく国政を|執《と》り行っているではないか。  考え込む彼を見て、ヘイゼルは|朗《ほが》らかな笑い声をたてた。 「やれやれ。いくつになっても親にとっちゃ子供は子供ってことかね」  だがすぐに|年齢《ねんれい》に見合った真顔になった。 「|聖砂《せいさ》国《こく》の連中がここを砂漠と呼んでいるのは、国を出たことがないからさ。彼等は暑い土地の砂漠を知らない。土は乾燥してサラサラだし、水もなく草一本生えていないが、サハラを歩いた者に言わせればこれは砂漠じゃない。|凍土《とうど》か|凍原《とうげん》の夏季がこんな感じだったよ」 「確かに」 「アフリカに行ったら神族なんて|溶《と》けちゃうだろうね」  ヘイゼルの言葉どおり、広がる大地は熱砂とは程遠かった。  冷たい風が黄色い|粒《つぶ》を巻き上げ、ともすれば目や|喉《のど》に入りそうになるので、全身を覆う|装束《しょうぞく》は外せない。しかし日差しが強い割には、正午を過ぎても気温は一向に上がらず、太陽が離れていることを示していた。  気温と乾燥に気をつけさえすれば、|過酷《かこく》な旅という|環境《かんきょう》ではない。 「足を取られるほどの砂でもないし、この程度の気候なら馬でも充分旅ができる。迂回しなければならない|起伏《きふく》があるにしても、地下に大規模な通路を造るまでもないだろうに。先世の神族は一体|何故《なぜ》、墓場まであんな通路を」 「迷わないためかもしれない。ここには何の目標もないからね。旅に不慣れな者なら、迷った挙げ句に草もない大地の|塵《ちり》となるだろう」 「砂|溜《だ》まりに|呑《の》まれれば危険かもしれないが、それでもあなたの言う|不吉《ふきつ》な地下に比べれば、こちらのほうが余程気楽に思える」 「さあねえ。肥車引きの|婆《ばあ》さんじゃ、仕事帰りにちょいと古文書にあたるってわけにもいかないからね……アチラ!」  ヘイゼルは軽く片手を挙げて、仲間の内の一人、白|徽《かび》が|生《は》えたような|髭《ひげ》を持つ男を呼んだ。アチラは上陸した時から通詞としてついていた人物で、本来なら|奴隷《どれい》の身分ではないが、公開|処刑《しょけい》で|従兄弟《いとこ》を助けられたために、地位を|擲《なげう》ってこの行程に参加しているのだ。  |他《ほか》の二人は作戦決行時に|突貫《とっかん》救出チームを組んだ男と、逆に命を救われた|囚人《しゅうじん》だ。四十代の|痩《や》せ過ぎた男は、首に縄を|掛《か》けられても平然としていたが、実のところ「小便ちびりそうなくらいビビって」いて、それを|誤魔化《ごまか》すために大声で歌っていたらしい。  この、骨と皮ばかりの元囚人がアチラ氏の従兄弟だ。以前は歌い手として王宮にも呼ばれていたらしいが、ある切っ掛けで外海帰りとなり、最も過酷な収容所に送られていた。ユーリが望むジェイソン・フレディ救出には、この男の道案内が欠かせないだろう。 「アチラは通訳という法術の達人だそうだよ。あたしには語学の得意なお髭ちゃんにしか思えないんだけどね。でも彼なら王都の蔵書を読み放題だ、地下通路の謂われも知っているかもしれない。アチラ、|墳墓《ふんぼ》への地下道を……」  ヘイゼルはすぐに聖砂国語に切り替える。|魔族《まぞく》とヘイゼルは実用重視の英語で話し、ヘイゼルと仲間達は聖砂国語で話す。神族と魔族が会話をするには、彼女に英語に訳してもらうか、アチラのような通詞を|介《かい》するしかない。少々不便だが、意思の|疎通《そつう》ができるだけでもありがたかった。 「チカヲ?」  ちょっと|片言《カタコト》だが。 「地下、通る、遺体」 「遺体……死者が通るのか?」  通訳が深く|頷《うなず》いた。 「|葬列《そうれつ》を?」  を? と質問口調で言われても困るのだが、推測によると|件《くだん》の地下通路は、死者を墓まで送る葬列のための設備なのだろうか。 「王族の遺体、王族の墓、葬列」 「つまりこうだよウェラー卿、あの通路は王族の遺体を墳墓まで運ぶ葬列のために造られたんだ。直線距離で、墓場まで死体まっしぐら」 「成程……死者を光に当てないようにするわけか。宗教的な理由なら考えられなくもない。しかし数百年前までは、人が住んでいたと聞くが」 「住人、ソーギヤ」 「何?」  |大胆《だいたん》な意訳を聞いて、ウェラー卿は|眉《まゆ》を上げた。|葬儀《そうぎ》屋? 「住人達こそが、葬列の|担《にな》い手だったそうだよ。つまり大規模な葬儀屋集団かね」 「それはまた、|特殊《とくしゅ》な……」  だが王族の遺体を、いくら日の光に|曝《さら》さないためとはいえ、奴隷の中でも下層階級だったという地下の住人に|託《たく》すだろうか。それとも彼等はこういったことの専門家で、王都から|離《はな》れた墳墓まで死体の|傷《いた》みを最低限に|抑《おさ》える技術を持っていたから、遺族もやむなく彼等に任せていたのか。例えば……。 「ミイラ化させるとか? だったらノーだ。あたしの知る限りでは、|棺桶《かんおけ》の中身は、ごく|普通《ふつう》のスピードで朽ちていっていた。来世でも同じ肉体を使おうとは思っていないようだよ」 「墓の中を見てきたあなたが言うのなら、そのとおりなんでしょう。けれどそうなると地下住民の存在する意味が、|尚更《なおさら》|解《わか》らなくなりますが」  通訳が早口で何事か言い、ヘイゼルは目を丸くした。何十年かぶりに|OMG《オーマイゴッド》と|叫《さけ》びそうになっている。 「生者は通ることを許されないだって? 聞いたかいウェラー卿、どうやらあたしがあの穴蔵から生きて出られたのは、何かの|奇跡《きせき》らしいよ! 神様ありがとう」  まるで奇跡でも起こらなければ|生還《せいかん》できないような言い方だ。彼女自身もそれに気付いたらしく、すぐに言葉を加えた。 「|大丈夫《だいじょうぶ》、あんたたちの陛下にだって仏様がついてるだろう。若い|頃《ころ》にチベットで過ごしたことがあるけれど、とても貴重な体験だった。|仏陀《ブッダ》はどんな者も|拒《こば》まないと教えられたよ。だったら陛下みたいな|素晴《すば》らしい子を、|厄災《やくさい》から守ってくれないはずがない。それに葬儀屋集団だから特別だといったって、地下住民だってちゃんと生きていたんだから、|全《すべ》ての生者が拒まれるわけではないんだろうさ。そう悲観的になりなさんな」 「デモ!」  英語が理解できているのかいないのか、アチラが会話に割って入った。 「地下の住人、生きてたけれど、記録された」  |手綱《たづな》を放し、両手で本を開く動作をしている。文書に記されていたと言いたいのだろう。 「多くの者が盲者かもだ」 「目が見えなかったっていうのかい?」 「……まさか」  コンラッドは|呟《つぶや》いた。急に喉の|渇《かわ》きを覚えた。      2 「ちょ、ちょっと待て。あの張り切りまくってラジオ体操を始めてるお年寄りは何だ?」 「どうやら|潜《もぐ》る気満々みたいデスネー」  夜間、異国の湖に|浮《う》いた照明も|控《ひか》えめなボートの|端《はじ》っこで、日米の学生二人は額を付き合わせていた。中央では|年齢不詳《ねんれいふしょう》のサングラスの男が、下半身だけウェットスーツというイカした姿で、入念に準備運動をしている。 「むっほ、むっほ、むっほ、むっほ」  意外といい腹筋だ。 「潜るってお前、グラサンのままで、しかも夜なのに……|石原《いしはら》軍団USA支部かよ」 「それを言うならショーリだって|眼鏡《めがね》も外さずに」 「俺はいいんだ俺は。眼鏡は顔の一部だからな」 「オーぅ、それはグラサン差別ではないデスカー?」  こいつらにはもっと眼鏡男子への尊敬の念を植え付けなければならない、と|渋谷《しぶや》|勝利《しょーり》は思った。サングラスをかければ|誰《だれ》でもそれなりに男前には見えるが、眼鏡をかけて|恰好《かっこう》良くなる男は限られている。いくら流行のデザインを取り入れたからといって、元が良くなければお話にならない。つまり貴重だ。サングラスに|頼《たよ》り、コンタクトレンズに|阿《おもね》ることなく、オーソドックスな眼鏡だけで勝負できる人間は、希少価値を認められてもっと尊敬されるべきだ。  なのに現実はどうだ。 「眼鏡の上からゴーグルするつもりですかー?」 「そりゃそうだろ、外したら箱探すどころじゃねーよ」 「あぁはぁーん?」  教材ビデオに出てくるアメリカ人みたいに|両肩《りょうかた》を|疎《すく》められた! 「それ以前にあんたら潜れんのかよーぅ?」  飛行機とボートを操縦してきたアジア系の男が、間の|抜《ぬ》けた調子の英語で聞いてきた。キャビンの屋根に座って短めの|両脚《りょうあし》をブラブラさせている。|呑気《のんき》なもんだ。その|隣《となり》では相変わらず|強面《こわもて》のカリブ系フランス人、フランソワが、むっつりとした顔で|腕組《うでぐ》みをしていた。彼等は知り合いだったらしく、空港で|紹介《しょうかい》された時に、勝利には聞き取れない言語で|挨拶《あいさつ》をしていた。  アジア人の名前はDTJ、|何処《どこ》かのテーマパークみたいな呼び方だから、|恐《おそ》らく本名ではないだろう。  彼はチャーター機のパイロットで、ボブやアビゲイルとも旧知の仲らしかった。空を飛ばせたら天下一品という話だが、ヤンキースのキャップと|縦縞《たてじま》のシャツ、それにやや|下膨《しもぶく》れの顔つきのせいか、年齢がさっぱり|判《わか》らない。勝利より年下の気もするが、いくら自由の国アメリカだって、そんな若さでは航空機の操縦|免許《めんきょ》は取得できまい。しかし口だけは|憎《にく》らしいほど達者で、初対面にもかかわらず勝利に|喧嘩《けんか》を売ってきた。 「日本人か。言っておくがオレの名前の最後のJは、ジャパンのJじゃないからな」  そう強調するところをみると、日本にあまり良い印象を持っていないらしい。  年齢不詳のアジア人と強面のフランス人は、見れば見るほど|奇妙《きみょう》な取り合わせだった。 「ダイビングの経験がないなら正直に言ってくれよー? いくらオレサマが民間トップガンだといっても、一度に二人も三人も救助はできないかんなー」 「なんだその民間トップガンてのは。|浪花《なにわ》のモーツァルトの|親戚《しんせき》か何かか? ああ潜れるさ、潜れますとも。当たり前だろ、俺は日本人だぞ、ちょっと湖に潜るくらい何てこたない!」  日本人の半分くらいはサムライとゲイシャでできているが、もう半分は|海女《あま》と漁師でできているのだ。都知事候補のスーパー大学生にできないはずはない。あの悪名高いガチャピンだって、南の海でお魚さんと|戯《たわむ》れていた。ムックの血筋でない限りは大丈夫。  勝利はぴっちりしたゴムを肩まで引き上げた。予想以上のきつさだ。これでファスナーを首まで閉めたら、乳首の位置が|確認《かくにん》できそう。 「むっほ、むっほ、むっほ、むっほ」  ボブは準備体操に余念がない。 「今のうちにサクッと済ませちゃおうぜ」  勝利はインストラクターの資格を持っているというアビゲイル・グレイブスをこっそり|急《せ》かした。  それにしても世界には|驚《おどろ》きの人材がいるものだ。空港でポツンと座っていた|錦鯉《にしきヒい》女が、実は世界に名だたるトレジャーハンター(|自称《じしょう》)で、その上チアリーダーでダイビングのインストラクターで|間違《まちが》った日本通だったなんて。ご近所では|優秀《ゆうしゅう》なお兄さんで通っている勝利だが、経歴で少々|圧《お》され気味だった。  この調子では今後もどんな|逸材《いつざい》が現れるか判ったものではない。何しろ自家用航空機、名付けてボブ・エアーを持つ経済界の|魔王《まおう》が、商店街でサンバをエンジョイしている世の中なのだ。昨日までは単なるガンオタだと思っていた男が、非常に|頼《たよ》れるニュータイプだったりする可能性もある。  ……そのとおりだった。  何事も、先立つものは金だ。  誰かを出し抜き、素知らぬ顔で先回りしようにも、資金がなければどうにもならない。たとえそれが正しい行いであってもだ。 「有り得ないよね、キャッシュでチケット買うと|怪《あや》しまれるって。いつもニコニコ現金決済、そのほうがずっと健全じゃないか。カード破産する心配もないし」 「アメリカをー、責めないでー」 「別に特定の国家を責めてるわけじゃないよ」  |村田《むらた》|健《けん》はただ単に、現金|支払《しはら》いに|一瞬《いっしゅん》だけ|不審《ふしん》な顔をした職員に対して、不満をぶつけているだけなのだ。|一介《いっかい》の高校生が持つカードなんて、限度額は高が知れている。|所詮《しょせん》サラリーマン家庭、所詮家族会員だ。  だからってキャッシュで払おうとすれば、何それそのお金どうやって手に入れたの? という疑いの目を向けられる。この国には株で|儲《もう》けたり会社を興したりして、若いながらもがっつり|稼《かせ》いでいる学生もいるが、それと同じかそれ以上に、犯罪|行為《こうい》に手を染めている若者も存在するからだ。 「まったく、僕が運び屋なんかしそうに見えるのかな。|麻薬《まやく》ごときで人生棒に|振《ふ》る気はないよ」  冷静さを取り|戻《もど》そうと、村田は大きく息を|吐《は》いた。 「確かにもっとヤバい物は運んだけどさ」 「それはきみじゃないでしょ、健ちゃん」 「知ってる、判ってる。大丈夫、ちゃんと区別できてるよ」  結局、ニューヨークからの乗り|換《か》えチケットはロドリゲスが|購入《こうにゅう》した。  彼は保護者役を演じるのが楽しいらしく、笑い|皺《じわ》をいっそう深めて付き|添《そ》っている。ゴーグルを外し、慣れないジャケットまで着て、|精一杯《せいいっぱい》親ぶっていた。ホセ・ロドリゲスは優秀な小児科医だ。職業に選ぶくらいだから、元々子供の世話は|嫌《きら》いではない。自分が|手掛《てが》けた子供であれば|尚更《なおさら》だ。  専用機でスイスへと|発《た》ったボブたちとは別行動をとり、村田とロドリゲスは成田からニューヨークへ、そしてニューヨークからマサチューセッツ州のローガン国際空港へと移動していた。 「日本人は幼く見えるんだよねー。きみだってきっと中学生の一人旅に見えてるはずだよー」 「中学生だって飛行機に乗るよ。大事な友達を|捜《さが》すためならね」 「そうだけど。こっちはそういうの厳しいんだ。|離婚《りこん》した父親が|息子《むすこ》を連れ去っても、|誘拐扱《ゆうかいあつか》いされるくらいだからねー」 「ヒスパニックの中年男と日本人の学生が|一緒《いっしょ》に歩いてるほうが、ずっと怪しく見えると思うんだけど……ああもうドクター、そんな情けない顔しないでよ。ボブから|離《はな》れて僕についてきてくれただけでも感謝してるんだから。それより……」  午後の国際空港はけっこう混雑している。観光シーズンでもないのに、スーツケースを転がす人々も少なくない。はぐれないよう隣を歩きながら、村田は|痩《や》せたメキシコ人を見た。 「この先|大丈夫《だいじょうぶ》なの? 彼の意に|背《そむ》くような|真似《まね》をして。仕事に差し|支《つか》えたりしなければいいけど」 「なーに言ってるの健ちゃん。オレはしがない小児科医だよー? ボブが圧力かけようにも、儲かってもいない|診療所《しんりょうじょ》勤務じゃ手の出しようもないって。もっとも、彼はそんなことする人じゃないけどね」 「よかった。あっちを通さずに直接|連絡《れんらく》もらった時から、それだけが心配だったんだ」 「うん。だって健ちゃん、ボブより先に知りたいだろうと思ったから」 「もちろん」  ロドリゲスの属する集団のトップは、現在勝利達と一緒にスイスにいるはずのボブだ。重要な情報を村田に伝える際、ボブを通さないのは裏切りととられても仕方のない行為だった。  ロドリゲスから『箱』に関する情報をもらったのは、ほんの数週間前だった。もしきみがそうしたいなら、ボブにはきみから報告してくれてもいい。彼は電話を切る直前にそう言った。だから村田は|咄嵯《とっさ》にこう答えたのだ。「様子を見たい」と。 「この先どうするのかは、きみ|次第《しだい》だけどね」 「というより|寧《むし》ろボブ次第だよ。僕の中での彼の評価はガタ落ちだ。いくら渋谷兄の望みを|叶《かな》えてやりたいからって、『鏡の|水底《みなそこ》』を使うなんて言い出すから」 「うーん。|普段《ふだん》はそんなに考えなしな人じゃないんだけどねえー。ジュニアのこととなると親バカになっちゃうのかなあ」 「親子じゃないのに?」  小児科医は照れたような笑いを|浮《う》かべながら、節の目立つ小枝のような指で、|伸《の》び過ぎた|前髪《まえがみ》を|掻《か》き上げた。|頬《ほお》にはまだ|後《おく》れ毛が残っている。 「そこはそれ、オレにも気持ちは|解《わか》るけどね。ところで親といえばきみのほうこそ、パパとママは大丈夫なの?」 「大丈夫、二人とも|鍵《かぎ》持ってるから」  そういう問題じゃ……という顔をされてしまう。とはいえ現実だから仕方がない。 「いい意味で無関心、いい具合に放任主義だよ。友達の家に|泊《と》まるって書き置き残せば捜しもしない。実のところ友達の名前なんか一人も知らないから、捜そうったって無理なんだけどね。学祭|休暇《きゅうか》の一週間、旅行するって言ってある。大丈夫、ケータイにかけりゃいつでも通じるって安心してるから、|宿泊《しゅくはく》先なんか確かめないよ」 「健ちゃん」  生まれる前に彼の保護者だった男は、|僅《わず》かに|眉《まゆ》を寄せ、困ったように口端を下げた。 「|寂《さび》しくないの?」 「寂しいって、なんで?」  |幼稚《ようち》な言葉を|叫《さけ》びながら、二人の|脇《わき》を少女が|駆《か》け|抜《ぬ》けて行った。母親らしき女性が、青いベンチで手招きしている。フランス語で小言を言いながら|膝《ひざ》に|抱《かか》え上げ、|腰《こし》にしっかりと|腕《うで》を回した。ローガンには多数の航空会社が乗り入れている。|此処《ここ》からヨーロッパへと向かう客も多い。ロドリゲスはその光景を目で追いながら、自分自身に問いかけるように|呟《つぶや》いた。 「……誤った|選択《せんたく》をしたかな」 「何を」 「きみの家族だよ。ボブは渋谷リトルが生まれる場所として、|完璧《かんぺき》なファミリーを選んだけど、きみの家となる候補を選んだのはオレなんだよね。実は|香港《ホンコン》の|富豪《ふごう》で、なかなか|跡取《あとと》りに|恵《めぐ》まれない一家と最後まで迷ったんだ。前の人も、ほら、そのー、香港在住だったよね? でも結局、日本人のごく|普通《ふつう》のご夫婦に|託《たく》したんだけど……|間違《まちが》ってたかなあ。もしかして生まれながらの大金持ちで国際派の|坊《ぼっ》ちゃんのほうが良かったのかなー」 「はあ?」  いきなり何を言いだすのかと|呆《あき》れて、村田は歩を|緩《ゆる》めて、相手の顔をまじまじと見た。 「だって、家族愛に恵まれてないみたいなこと言うから、あんまり幸せじゃないのかなーと思って」 「そんなことないよ、ドクター!」  勝手に想像されてはたまらない。|既《すで》に日本人として成長した本人は、もう一つの選択肢を|慌《あわ》てて否定した。 「生まれついての大金持ちってのにはちょっと|惹《ひ》かれるけど、|一旦《いったん》あっちに生まれちゃったら、日本に来るまでに手間がかかる。跡取り息子じゃそう簡単に移住ってわけにもいかないし、出会うまでに余計な時間がかかるじゃないか」 「|誰《だれ》に? ユーリちゃんに?」 「そう。だから日本で大正解」 「それはさー、健ちゃん」  |爪《つめ》の短い人差し指で、小児科医は|眼鏡《めがね》を押し上げた。流行|遅《おく》れのフレームが鼻からずり落ちかけている。 「……愛ある家庭を|諦《あきら》めてでも、手に入れたかったものなの?」 「そうだよ」  つられて自分も眼鏡を押さえながら村田は|頷《うなず》いた。 「そう、今度こそ手に入れたかったんだ。別に新しい|魔王《まおう》が欲しかったわけじゃない。何もかも話せる相手が欲しかったんだ。|隠《かく》し事をしなくて済む仲間が、友人が欲しかった」  心を開こうとしなかったフランス人も、|記憶《きおく》を認め|追及《ついきゅう》しようとしなかった|可哀想《かわいそう》な|娘《むすめ》も、得られなかったもの。 「僕はずっと渋谷有利が欲しかったんだ」  自分はそれを手に入れた。 「今が一番幸せだよ」  だから絶対に失いたくない。誰を敵に回しても。  |握《にぎ》った|拳《こぶし》に|一瞬《いっしゅん》だけ力がこもった。だがそれをすぐに|身体《からだ》の内側に|戻《もど》し、陽気な調子を|装《よそお》って続ける。 「それに、誤解があるようだから弁解しておくけどねドクター、あの人達……うちの両親は僕のことを大好きだと思うよ? ただ僕があまりに問題なく成長しちゃったから、親としてちょっと油断してるだけなんだな。優等生だからね、信用されてるんだ。きっと僕がいきなり街頭で合法ドラッグでも売り始めたら、血相変えて|更正《こうせい》させようとすると思う。それこそ仕事を|擲《なげう》ってでも。ああけどその前に、父親はショックで|倒《たお》れちゃうかも」 「優等生がいきなりドラッグって、人生の転落激しすぎだよ。おっとと」  すれ違おうとした青年のバックパックが|肩《かた》に当たって、ロドリゲスはよろめいた。彼は至って健康だが、|枯《か》れ|木《き》みたいに痩せている。長期旅行者のスーツケースと比べたら、向こうのほうが重いんじゃないかと疑うほどだ。 「でも僕等、|庶民《しょみん》の生まれだけど、旅行スタイルだけはかなりの達人だよね」  ボブと勝利の予想外の行動に|驚《おどろ》き、取る物も取り|敢《あ》えず空港に駆け込んだので、手荷物といえば財布とパスポートくらいだった。  ガイドブックを買った書店のビニール|袋《ぶくろ》に財布を|突《つ》っ込み、|濃紺《のうこん》の冊子だけを内ポケットに入れている。|着替《きが》えや洗面用具は現地調達の予定だ。移動を考えたら身軽なほうがいいとはいえ、とても海外旅行中とは思えない。しかしそのお|陰《かげ》で大混雑のバゲージクレームを横目に、「Welcome to Boston」の下をさっさと通過できた。 「その点はご心配なく。目的地のフリーポートはアウトレットで有名な街だよ。上から下までブランド品でピシッと決められるからね」 「ブランド物のスーツが必要なのはそっちじゃない?」  村田は同行者の全身を|眺《なが》めた。ヨレヨレのジャケットはそこらの|量販店《りょうはんてん》で売っていそうな安物で、ステータスにまるで見合わない|恰好《かっこう》だ。勤務医とはいえそれなりに|権威《けんい》のある小児科医なのに、気を|遣《つか》わないにも|程《ほど》がある。彼こそこの機会に一式|揃《モう》えればいいのだ。全米小児精神科医学会で演台に立てるようなまともなやつを。 「……アウトレットはどうでもいいけど、まあ僕は、行く先がボストン市内でないだけでもありがたいよ」  ボストンには、過去を想起させる様々なものがありすぎる。ビーコンヒルにはグレイブス家があるし、チャイナタウンには今でも生まれ育った店が残っているだろう。  もちろん村田自身の過去ではない。けれどふとした|切《き》っ|掛《か》けで、我が身に起こったことのように|甦《よみがえ》る場合もある。|避《さ》けられるものならば、そうするに|越《こ》したことはない。  独白を聞かれたかどうかは|判《わか》らなかった。  一方スイス班は、避けられそうにない事態に直面していた。  水上は投光器で|眩《まぶ》しいくらいに照らされ、勝利達の乗ってきたボートは、ミリタリーグリーンの集団に包囲されている。 彼等は武装していた。しかも|銃《じゆう》の|筒先《つつさき》は、あろうことか渋谷勝利・ボブ|御《ご》一行様だ。岸辺の待機組を|除《のぞ》いて、小型|艇《てい》で接近して来た者達だけを数えても、軽く二十人は|超《こ》えるだろう。 「二十四の|瞳《ひとみ》……じゃなかった、二十もの銃口が、俺に」 「|流石《さすが》のワタシも二十は記録デース」  こういう時こそ|頼《たよ》りにしたい存在であるボブは、まだ準備運動モードから抜けだせていない。ラジオ体操第一、腕を前から上に|背伸《せの》びの運動! の|途中《とちゅう》のポーズで、うまいことホールドアップしている。  残る四人も|皆《みな》、顔の横に手を挙げていた。二十もの銃口が向けられていれば、どんな|超人《ちょうじん》でもにっこり笑って|抵抗《ていこう》をやめるだろう。 「しかし一体何で俺達が警察のお世話にならなきゃいけないんだ。まだ箱を引き上げるどころか、|潜《もぐ》ってもいないんだぞ。それともここは、えーとあれか、遊泳禁止か?」  遊泳禁止の取り|締《し》まりにしては|随分《ずいぶん》と大掛かりだ。  とぼけた勝利のコメントに、アビゲイルがあまり深刻ではなさそうに専門的なことを言った。 「ショーリったら。この連中は警察じゃなくて軍隊よ。よく見て、三八口径じゃなくて九ミリを持ってるでしょ?」 「よ、よく見ても判らねえ」 「わぁ、これぞ日本人! って感じ」  アビゲイルが軽い調子で言う。事も無げに言ってはいるが、勝利相手にもかかわらず、使用言語が英語に変わっていた。口ほどには|余裕《よゆう》がない|証拠《しょうこ》だ。勝利にとっては銃器の口径など区別がつかない。それどころか敵兵の三人に一人は、マシンガンを持っているようにも見える。 「軍隊だとしたら|尚更《なおさら》だ、何で俺達が軍に取り囲まれなきゃなんないわけ? ていうかそれ以前にあの武器で|撃《う》たれたら、痛い、やや痛い、死ぬほど痛いのどれだろう」 「痛くねーよ、その前に死ぬかんな」  |自称《じしょう》・民間トップガンことDTJがぼそりと呟くと同時に、彼等のボートが大きく揺れた。取り囲んでいた兵士達が、警告の言葉を口々に|叫《さけ》びながら乗り込んできたのだ。何を言われているのか勝利にはさっぱり判らない。スイスって主要言語は何語だっけ、スイス語だっけ?  アビゲイルが|鬼気迫《ききせま》る表情で、語気|荒《あら》く|怒鳴《どな》り返している。 「ぐ、グレイブス、そんなに|怒《おこ》らずに、ここは下手に出ておいたほうが……」 「怒ってない! ドイツ語で反論するとそう聞こえるだけ! でも取り敢えずスイス軍で良かったーぁ」 「なんでだ?」 「うち、|曾《ひい》グランパがドイツ人なんだけど、困ったことにうちの曾お|祖父《じい》ちゃん、戦犯|扱《あつか》いでドイツ本国に出入り禁止なの」 「お前のじーさんは何やらかしたんだよ!?」  アビゲイルがドイツ語で怒鳴り、ボブがフランス語で|凄《すご》み、フランソワが顔色も変えず|黙《だま》り込み、DTJが鼻を|穿《ほじ》りながら Fuck Fuck 言っている。  勝利はぴっちぴちのウェットスーツ姿で天を|仰《あお》ぎつつ、ヘルメットを|被《かぶ》った若手芸能人が、『どっきり』と書かれた札を持って現れるのをひたすら待ち続けていた。  |迎《むか》えに来ていたレンジローバーには、四十近いのに黄色いキャップに全身緑という、|奇妙《きみょう》な恰好の運転手が寄り掛かっていた。茶色の|癖毛《くせげ》で|大柄《おおがら》な男だ。  ロビーから出てきた村田とロドリゲスに気付くと、バクついていたドーナツを取り落として敬礼する。運転手が敬礼? 村田は|不審《ふしん》に思ったが、ロドリゲスはそういう態度に慣れているらしく、右手を軽く挙げて返礼をした。 「やあマシュー、久し|振《ぶ》り。ちょっと|雰囲気《ふんいき》変わったねー。もしかして今は……|軍曹《ぐんそう》なの?」 「ご|無沙汰《ぶさた》いたしておりますです|艦長殿《かんちょうどの》っ! いえそのー、自分は|生涯《しょうがい》一|連邦《れんぽう》軍兵士であり続けたいのですが、しかしですなそのー、|息子《むすこ》が|地球《ペコポン》|侵略《しんりゃく》をせがむものですからー。艦長殿は現在はスーツ組でありますか?」 「うん、まあ色々あってね。そうそう、東京でお|土産《みやげ》買ったんだけど、荷物になるから自宅に送っちゃったんだよね。あとできみたちにも分けるから」 「光栄でありますッ、艦長殿っ」  |名誉《めいよ》というより土産物の中身を想像して|誕《よだれ》を垂らしそうな運転手は、アメリカンタクシーにあらざる態度で後部座席のドアまで開けてくれた。 「|紹介《しょうかい》するね、健ちゃん、彼はマシュー・オールセン。ホワイトベース時代からのお友達だよ」  ホワイトベース時代って何だろう。米ソ冷戦時代とか|鎌倉《かまくら》時代とか、そんなようなものと|捉《とら》えていいのかな……とそこまで考えたときだ。不意に村田の|脳裏《のうり》に、幼少時に受けたロドリゲスの|診察《しんさつ》が甦った。小児科医は最初にこう|訊《き》いてきた。 『好きなモビルスーツはなぁに?』 「……ということは、もしかして、いやもしかしなくても、二人はガンダム|繋《つな》がりなんだね」  ロドリゲスとマシュー・オールセンは満面の|笑《え》みで肩を組んだ。 「そうそう。ガン友よ永遠に、さー」  しかし年月は人を変える。  どうやら息子の|影響《えいきょう》で|他《ほか》のアニメにも興味を持ち始めたらしいマシュー・オールセンは、ルームミラーにまで緑の何かをぶら下げていた。とっても|蛙《かえる》好きのようだ。 「向こうには空の遺伝子を持つ男……の孫がいるから、こっちにも助っ人としてマシューを呼んだんだよ。それに彼はこれから会う人とも知り合いだしねー」  ボブ・エアーの専属パイロットがDTという天才操縦士の孫である話は聞いていた。だがそんなご大層な二つ名を持つ孫の相手が、ガンオタオールセンで見合うのだろうか。まあいい、|普通車輌《ふつうしゃりょう》の通る市街を運転するだけなら、そこらの高校生でもこなせる。  と、走り出した車窓の外に目をやると……。 「ちょっと待って!? 今、オレンジ色の水陸両用みたいな車輌と|擦《す》れ|違《ちが》ったよ!? ひょっとしてボストンって、白昼堂々市街で軍事演習があるの!?」 「あー、あれは違うでありますよ。単なる|面白《おもしろ》ツアーの|一環《いっかん》であります」 「面白ツアー!? 軍隊かと思ったよ」  感心するやら|呆《あき》れるやらで、これまで|維持《いじ》してきた|緊張《きんちょう》感が一気になくなった。|肩《かた》から力が|抜《ぬ》け、雨に|濡《ぬ》れたぬいぐるみみたいにシートに背を預ける。すると車囚の暖かい空気のせいか、快い|睡魔《すいま》に包まれた。機内でもろくに|眠《ねむ》れなかったのだ。 「……軍隊といえばさ」  自然と|頬《ほお》が|緩《ゆる》んだ。 「|今頃《いまごろ》あの人達、スイスとドイツの|特殊《とくしゅ》部隊に取り囲まれてるかもしれないな」 「特殊部隊!?」 「うん、まあ特殊部隊とはいかないまでも、X-File系事件の担当部署が、|睨《にら》みを|利《き》かせてるのは確かだ」 「何でまたそんな|物騒《ぶっそう》なことに」 「情報を流したからだよ。コンフェデラチオ・ヘルヴェティカ、スイス連邦当局にね」  当局って一体どこのことだ、と村田自身もこれまで常々思ってきた。だが実際に利用する段になると、|自《おの》ずと分かってくるものである。 「あとちょっとだけ、ドイツの|素人《しろうと》研究家にも。第二次世界大戦中にナチスが|血眼《ちまなこ》になって探していたオーパーツがボーデン湖に、って……」  村田はこみ上げてくる笑いを|噛《か》み殺した。 「ネット上の|噂《うわさ》には、長ーい|尾鰭《おひれ》がつくもんだよね。多分ここ数週間、現場では、夜になると赤い目のボッシーや|巨大《きょだい》な|足跡《そくせき》のボーデゴンが|出没《しゅつぼつ》してるかも」 「そんな|恐《おそ》ろしいことして」 「敵の気を引くためだ、仕方ない。皆でボーデン湖[#「ボーデン湖」に傍点]の『鏡の|水底《みなそこ》』に集中してくれれば、こっちの|邪魔《じゃま》する|奴《やつ》が減るだろ」 「でも……」  随分昔にこの高校生のカウンセリングをした小児科医は、|中途《ちゅうと》半端《はんぱ》に後ろで|括《くく》った|髪《かみ》を|弄《いじ》った。楽天的な彼にしては|珍《めずら》しく、不安を|隠《かく》しきれない様子だ。彼は村田ほど|攻撃《こうげき》的な作戦を望んでいないらしい。 「当局に知れたら専門家が|介入《かいにゅう》するよ。そうなったら渋谷ジュニアとアビーだけの時よりずっと|厄介《やっかい》じゃないか。もしもどっちかが本当に『鏡の水底』を引き上げちゃったら……」 「有り得ない」 「なんで?」 「無いから」  何の反応も得られないので、もう一度同じ一言を|繰《く》り返す。するとようやく流行|遅《おく》れのフレームの向こうで、笑い|皺《じわ》が|伸《の》ばされ、細い目がいっぱいに見開かれた。 「無いって、箱が?」 「そう」 「湖に?」 「うん」 「だって、箱は水の底に|沈《しず》めたって、きみ……」 「言ったよ」  |隣《となり》のシートで|唖然《あぜん》とする同乗者に、村田は人の悪い笑みを禁じ得なかった。 「言ったよ、言った。箱は……『鏡の水底』は|誰《だれ》の手も届かないような深い水の底に沈めた。確かに。僕がこの手で。まあ僕じゃないけど。厳密にいうとあの人間不信のフランス人医師がやったんだけどね。|但《ただ》し、湖じゃない」  口を開けたまま人差し指を向けるばかりで、問い返す言葉になっていない。無理もない、この少々腹立たしい事実は、本人も|後継者《こうけいしゃ》とされる村田自身も、今日まで誰にも|漏《も》らさなかったのだから。 「海底に沈めた。さっき上空を通ったよ?」 「通ったって、太平洋にー!?」 「うん。正確な位置は僕も覚えてない。何しろ彼にとっても予想外の出来事だったから」 「よく……よく|解《わか》らないよ健ちゃん! もっときちんと順を追って説明してくれないと! ああマシューのことはいいから。マシューのことは気にしないで。マシュー、これはトップシークレットの密談だからね、この情報が漏れたら我々は敗北するからね! ほら健ちゃん、もうこれで|大丈夫《だいじょうぶ》だからっ!」 「|了解《りょうかい》」  りょうかーい、と村田は間延びした返事をした。生まれる前の保護者を|真似《まね》て。それから胸の前で|両腕《りょううで》を組み、背骨をぐっとシートに押しつけた。走行中の|振動《しんどう》がさっきよりも伝わる。 「僕の|魂《たましい》のご先祖様が……|便宜《べんぎ》上、そういう言い方をするよ? 何代前かは数えるのも|面倒《めんどう》だけどね。とにかく、僕の中の記録に残るむかーしの人物だ」  彼は|敢《あ》えて「記録」という言葉を選んだ。相手がそのことに気付いたかどうかは|判《わか》らない。 「初代かどうかは別として、|賢者《けんじゃ》とか呼ばれてた人。|鬱陶《うっとう》しいくらい髪の長い。彼が四つの箱のうち二つを持って……それこそ|小脇《こわき》に|抱《かか》えて、地球に|吹《ふ》っ|飛《と》んできたのは話したよね」 「き、聞いた」 「それから何度か、生まれる場所が悪くて箱の所在を見失ったり、|環境《かんきょう》が悪くてご先祖様のほうが自分の正体に気付かなくて、お荷物の存在自体を認めなかったりを繰り返したわけ。中には何もかもしっかり理解して、箱もきっちり|監視《かんし》してた|優秀《ゆうしゅう》なご先祖様もいるんだけど」 「きみみたいに?」 「やだなードクター、|褒《ほ》めても何にもあげられないよ。ご覧のとおり僕いまビニール袋とパスポートしか持ってないんだからさ。でもあのフランス人ドクター、アンリ・レジャンの時代はですね、もちろん彼のせいじゃないんだけど、運悪く箱の所在は二つとも|掴《つか》めてなかった。だから……これも推測の域をでてはいないんだけどね、アビーの|曾祖母《そうそぼ》のお|祖母《ばあ》ちゃん……混乱するなあ。とにかくトレジャーハンターだったヘイゼル・グレイブスは|奇跡《きせき》的に箱を二つとも手に入れた。その内の一つ、『鏡の水底』は、西アジアで発見されてオーストリアの|画廊《がろう》に預けられていたところ、噂を聞いた独裁者に|奪《うば》われてしまった。あくまで推測だよ?」  見開かれていた目が通常のサイズに|戻《もど》り始めた。小児科医はどうやらやっと落ち着きを取り戻したようだ。 「うん、それでアビーの|曾《ひい》グランマ、だっけか。博物館建てた人、エイプリル・グレイブスが、仲介役のボブから話を持ち込まれて『鏡の水底』……恐らく『鏡の水底』と思われる箱を取り戻し、戦争に使われないようにボーデン湖に沈めたんだよね? その際に協力したのがパートナーだった天才パイロットと、彼女のご主人」 「同行したのが僕の魂的先々代、アンリ・レジャン。でもレジャンは、信じられなかった」 「……誰を?」 「誰をというより、あらゆるものをさ。|後生《こうせい》の僕だから言えるけど、彼も気の毒な人だった。誰も信じられず、何もかもを疑わずにはいられなかったんだ。|嫌《いや》な性格だけど、ある意味彼も|犠牲者《ぎせいしゃ》だよね。ほんと、このシステムは|残酷《ざんこく》だと思うよ、考えた奴は血も|涙《なみだ》もない」  そいつに心当たりはあるけど、と言いかけて|止《や》めた。眞魔国の開祖のことなど、地球で明かしても何にもならない。 「|沢山《たくさん》の|記憶《きおく》を背負いすぎて、でもそれを家族にも友達にも打ち明けられず、レジャンはずっと|孤立《こりつ》してたんだ。表向きは医師という立派な|肩書《かたが》きを持ってたし、誰にでも|愛想《あいそ》良く接してたけど、内面ではいつも独りで|怯《おび》えてたんだよ。自分はどこか精神的におかしいんじゃないか、でももしそうでなければ、自分は箱を守らなければならないんだろうか。だとしたらどうやって? 実在するかどうかも定かではない|馬鹿《ばか》げた箱を、どうやって探して誰の手から守るっていうんだ? そもそもこれは本当のことなのか。精神を|病《や》んだ人間によく見られる|兆候《ちょうこう》だ。過去の記憶も人格も歴史も箱も、病気の自分が|創《つく》り上げた|妄想《もうそう》の王国かもしれない。そりゃあ|悩《なや》むよね、僕も悩んだ。三歳児くらいのとき」 「健ちゃんは早熟だなー」 「うん、僕の場合は四歳とか五歳になると、|否応《いやおう》なしに渋谷とドクターが現れちゃったから。幸か不幸かあまり悩む|暇《ひま》もなかったんだ」  加えて彼が村田健として生まれたときには、あらゆるケースパターンが|既《すで》に用意されていた。悩んだ例、悩まなかった例、悩む以前に|困惑《こんわく》し、|狂気《きょうき》の|淵《ふち》に落ちていってしまった例。周囲に打ち明けて成功するのか、|吹聴《ふいちょう》して|葬《ほうむ》り去られるか。この重荷を認め受け入れて生きた者、受け入れるどころか|封《ふう》じ込め、忘れ去ろうとして不幸な結末を|迎《むか》えた者。レジャンでさえ半分程度しか思い出せなかったのに、村田の場合は|全《すべ》ての記録がそっくりそのまま引き|継《つ》がれた。  どの人生のどこを取り入れ、どういう点を真似れば楽に生きられるのか、先人の残した答えが無限にあったのだ。 「レジャンもボブと知り合って、少しは楽になったのかもしれない。でもそれだって全くの同類というわけじゃない。根源的な|違《ちが》いがある。心から打ち解けるってところまでは行けなかった。友達いなかったんだよね、アンリ・レジャン。僕と違って要領悪かったんだ」  小児科医は|思慮《しりょ》深げに|訊《き》いた。 「だからレジャンは何も信じられなかった……。信じられないからって彼、何をしたの?」 「箱を運んだんだよ」  英語では|駄洒落《だじゃれ》にもなりやしない。村田は|苦笑《くしょう》し、後頭部を楽にしようと|顎《あご》を上げた。 「|一旦《いったん》は湖に沈めた箱を、大戦末期になって、引き上げて移動したんだよ。彼は信じられなかった。エイプリルや彼女のご主人をじゃない。軍部が半永久的に箱の|在処《ありか》に気付かないなんて、絶対に有り得ないと思ったんだ。人生はうまくいくこともあるんだってのを、信じられなかったんだ」 「せっかく|隠《かく》したのに、また引き上げたんだね……でも移動するにしたって、人目に|触《ふ》れない場所っていったら限られてくるだろうに。一体|何処《どこ》に保管しようとしたんだろう」 「うん。その辺りが僕にもあまりはっきりしないんだけど。海に|沈《しず》あたのが彼の計画どおりだったのか、それとも計算外の出来事だったのか。|或《ある》いはずっと自分の手元に置いて、監視し続けるつもりだったのかもしれない。海の上でね」 「ああ確かに。船医の私物として船に積んでおけば、陸に置いておくより|勘《かん》付かれにくいかもね。常に移動してるわけだし。なるほどー」  ホセ・ロドリゲスは低く|唸《うな》ってフレームを持ち上げ、|枯《か》れ枝みたいな節の|浮《う》いた指で、ゆっくりと両方の|瞼《まぶた》を|擦《こす》った。|目尻《めじり》に|疲労《ひろう》の色を|滲《にじ》ませている。常に陽気なメキシカンの彼らしくない。 「でも結局は、沈めちゃったんだね」 「沈めちゃったというか、沈められちゃったというか」 「え?」 「彼が船医として乗り込んだ民間船は、味方の|誤爆《ごばく》で|沈没《ちんぼつ》した」  ロドリゲスは「あー……」と言ったきり、ぎゅっと目を|瞑《つぶ》って後頭部をシートに押し付けた。まるで|爆撃《ばくげき》されたのが自分の友達ででもあったかのように、|臍《へそ》の辺りで指を組み、悲しみに|唇《くちびる》を|歪《ゆが》ませる。  会話をやめると、|途端《とたん》に車内が静まり返った。|沈黙《ちんもく》に|耐《た》えられなかったのか、運転席のマシュー・オールセンがラジオのスイッチに手を|伸《の》ばす。馬鹿馬鹿しいほど|賑《にぎ》やかな音楽が、スピーカーから流れだした。早口の英語で、この世の絶望を歌っている。  医師はずっと昔にしたように、若い相談者の|膝《ひざ》に手を置いた。そしてゆっくりとした口調で|訊《き》いた。 「あるんだね、その|瞬間《しゅんかん》の記憶が」  |瞳《ひとみ》を|覆《おお》う瞼が|震《ふる》えた。 「きみの中に」 「ある」  短く答えて、村田は視線を窓の外に向けた。木々が色づき、美しい光景が広がっている。お世辞にも都会とは言い|難《がた》いと思ったら、車はハイウェイに乗り州境を|越《こ》えていた。ここはもうボストンではない。 「言って。健ちゃん、話して」 「変な感じだよ。話すほどのことでもない」 「でも聞かせて欲しい」 「落ちていくんだ」  この記憶を引き|摺《ず》り出そうとすると、目の前に|輝《かがや》くビーズのようなものが広がる。青を基調とした|万華鏡《まんげきょう》の中身みたいな、静かで美しい光景が広がるのだ。 「彼は|仰向《あおむ》けで、空を見上げたまま落ちていくんだ。空じゃなくて海だけど、海水越しの空だね。昼間なのか明るく青く、きらきらしていて、それを見上げながら沈んでいくんだ。痛くも苦しくもない。悲しいとか、そういう感情もない。|嘆《なげ》く家族もいなかったから」  何人もの死の瞬間を知っている。|破裂《はれつ》音と共に|突然《とつぜん》思考が|途切《とぎ》れて真っ暗になるケースもあるし、まるで子供の夢みたいに、現実では有り得ない光景を見続けたケースもある。レジャンの場合はとても静かだった。海中だから音が無かったのだろう。 「見上げた視界に、何人もの人間が降ってくる。降ってくるといってもとてもゆっくりだよ。両手|両脚《りょうあし》を|優雅《ゆうが》に動かしてね。彼の時代にはこんな言葉はなかっただろうけど、宇宙遊泳してるみたいだった。女の人の|髪《かみ》が、海草みたいにゆらゆらして。時々、赤やオレンジの花火が|弾《はじ》ける。でもそれも水の幕の向こうだから、ぼやけて|柔《やわ》らかくて、とても|綺麗《きれい》。変な感じだ、痛くも苦しくもない。ただ明るい水の中を沈んでいくだけだ」  そこまで言って、村田は大きく息を|吐《は》いた。 「あのあと死んだんだろうな、きっと」 「話してくれてありがとう。ごめんね、無理に言わせて。思い出すと|辛《つら》い?」 「辛くはないよ、でも本当に変な感じなんだ……どうかなドクター、|症例《しょうれい》の参考になった?」 「参考にしようにも、きみの話はきみ以外の|誰《だれ》にも当て|嵌《は》まらない」  膝に置いていた手を|退《ど》かして、ロドリゲスは村田の顔を|覗《のぞ》き込んだ。 「それに健ちゃんは病気じゃない。だから症例なんて呼び方をしたことはないよ」 「そうだっけ」  村田は頭の後ろで手を組んで、思い切り背筋を伸ばした。視線を|天井《てんじょう》からフロントシートへ、そのまま|足下《あしもと》へと落とす。|恐《おそ》らくオールセン家の|息子《むすこ》も乗るのだろう、車内の|清掃《せいそう》は|完璧《かんぺき》というわけではなく、|隅《すみ》っこには丸まったドーナツの|袋《ふくろ》が転がっていた。  子供が好みそうな、ピンクとパステルグリーンの|可愛《かわい》らしい色合いだ。  |殆《ほとん》どの大人は、子供がピンクやパステルグリーンを好きだと思っている。そして殆どの大人は、子供はいつまでも子供だと思っている。 「そうだったね」 「そうだよ、きみは最初から病気なんかじゃなかった。オレのネームプレートを見て、まだ舌足らずな幼児だったのに、いきなりジョゼって呼んだんだよ。ABCを知ってたんだねー」  なんか|眼鏡《めがね》が|曇《くも》ったなあと、村田はぼんやりと思った。人差し指で擦っても治らなかったので、|慌《あわ》てて話を元に|戻《もど》す。 「……『鏡の水底』は多分、太平洋の何処かに沈んでる。アンリ・レジャンの遺体と|一緒《いっしょ》にね。引き上げることは恐らく不可能だろう」 「じゃあそっちは|比較的《ひかくてき》安心なんだ」 「そう。海洋専門家が深海|探索《たんさく》マシンを使って、沈没船の財宝でも探そうとしない限りはね」 「|敏腕《びんわん》トレジャーハンターの|後継者《こうけいしゃ》、アビゲイル・グレイブスがいくら|潜《もぐ》っても、ボーデン湖からは発見されないんだ……なんかボブ達が気の毒になってきたなあ」 「勝手に探させとけばいいさ」  細い目でまじまじと|見詰《みつ》められる。 「なに、ドクター、何か不満?」 「不満じゃないけど、意外と腹黒く育っちゃったなーと思ってさー」 「|強《したた》かと言って欲しいな」  村田はにっこりしてみせた。そんなことない、優等生ですよというように。|些《いささ》かわざとらしくはなったが、どうせ最初からバレている。 「というわけで当面の問題は、もう一つの箱、『|凍土《とうど》の|劫火《ごうか》』に|絞《しぼ》られたわけですよ」 「でもそれはさー」  いつもどおり間延びした口調で、ロドリゲスが聞き返した。 「ヘイゼルが保管してたけど、何かの|切《き》っ|掛《か》けで家ごと燃えちゃったんでしょ?」 「一応そういうことになってるね、|謎《なぞ》が残るけど」  ヘイゼル・グレイブスは手に入れたばかりの|邸宅《ていたく》を、コレクションの展示室にしようと改装している|最中《さいちゅう》だった。彼女は最も大切にし、家族にさえ|滅多《めった》に見せなかった|幾《いく》つかの品を、自らの手で運び入れていた。  その中にそれがあった。『凍土の劫火』と目される箱が。  手に入れた二つの箱のうち、『鏡の水底』はオーストリアの画商に預けられていたが、『凍土の劫火』は|手許《てもと》に残していたのだ。  グレイブス邸を|襲《おそ》った|炎《ほのお》は、柱の一本に至るまで焼き|尽《つ》くした。残ったのは炭と灰だけだ。彼女自身もその火災で命を落としたとされているが、遺体は収容できなかった。|葬儀《そうぎ》に参列し、ヘイゼル・グレイブスのために|涙《なみだ》を流した|沢山《たくさん》の人々は、花と土をかけられた|棺《ひつぎ》の中に、彼女の服と、愛用の品しか納あられていなかったことを知らない。 「……でも僕は、行っちゃってるんじゃないかと思ってる」 「行くって」 「あっちに」  ロドリゲスは何処のことかとは訊かなかった。彼は地球で生まれ育った|魔族《まぞく》だ。|此処《ここ》とは異なる世界があると告げられても、具体的にどんな場所かは想像できないだろう。それでも「向こう」があることをきちんと理解し、受け入れている。 「だったら|納得《なっとく》?」 「というよりそれ以外では納得できないよ」  一九三〇年代の現場|捜査《そうさ》では、真実は探究できなかった。結論としてあまりにも高温で燃焼したために、建造物も家財も遺体も損傷し混ざり合ってしまったのだと、警察と消防は遺族にそう説明した。 「考えられないね。薬品工場でもガソリンスタンドでもない|普通《ふつう》の家だよ。どんなに高温で燃えたって、炭化した肉体か骨くらいは残るはずだ。爆撃でも受けたなら話は別だけど、|一般《いっぱん》的な火災で|跡形《あとかた》もなく消えるなんて有り得ない」 「まあ……七十年以上前だしねぇ」 「でももし、ヘイゼルが箱と一緒に向こうに飛ばされたのなら説明はつく。非科学的って点では引けをとらないけど」  |靴《くつ》の先でドーナツの袋を|蹴飛《けと》ばしてみた。ゴミはフロントシートの下に転がり込んで姿を消す。けれどそれは視界から外れただけで、たとえ見えなくてもシートの|陰《かげ》にきちんと存在する。物質が丸ごと消失するなんて有り得ない。 「……とにかくまず、ホルバートさんに会ってみないと」  村田の言葉にロドリゲスが小さく|頷《うなず》いた後、二人の間で会話が途切れた。ラジナだけが熱いメッセージを|繰《く》り返している。しかしやがてロドリゲスが、|堪《た》えかねたように|噴《ふ》きだした。 「そ、それにしても……無いって。スイスに箱がないって?」  小児科医は声をあげ、胸を押さえ、|眉間《みけん》に|皺《しわ》まで寄せて笑った。 「だったら健ちゃん、よりによってボブの前であの慌てようは何だい!? すっかり|騙《だま》された。|一芝居《ひとしばい》打ったんだ、悪い子だなー」  カラオケボックスでの一件を指して小児科医は言う。  悪い子とは何とも失礼で、|且《か》つ子供|扱《あつか》いした言い|種《ぐさ》だ。自分もつられて笑いだしながら、村田は窓|硝子《ガラス》を|拳《こぶし》で|叩《たた》いた。 「芝居じゃないよ。とてもじゃないけどそんな|余裕《よゆう》ない。あれは本当に取り乱してたんだ。渋谷がいないんだよ、|行方《ゆくえ》不明なんだ。こんなの|幼稚園《ようちえん》の時以来初めてだ。取り乱しもするさ」 「取り乱す? きみが?」 「まるで僕には感情がないみたいな|驚《おどろ》きようだな」 「そうじゃないよ、そうじゃないけど」  不意に笑いを引っ込め、医者は真顔で言った。 「心配だね」 「うーん、渋谷は|無鉄砲《むてっぽう》なとこあるから」 「そうじゃないよ、きみのこと」  それはまだ母親が子育てに興味を|抱《いだ》いていた|頃《ころ》の、幼稚園に行く我が子を送り出す時の表情に似ていた。心配だ、|離《はな》したくない、でも乗り|越《こ》えてくれるって信じてる。  村田は思わず視線を外し、天井を見ながら長い|溜息《ためいき》を吐いた。それから|凝《こ》りを|解《ほぐ》すように首を|傾《かたむ》け、側頭部を冷たい硝子に|擦《こす》りつけた。 「おなかが減ってなければ少し|寝《ね》たほうがいいよ。まだ二時間近くかかるから」 「寝るって、こんなけたたましい曲かかってる車で?」 「うん、フリーポートに着いたらちゃんと起こしてあげる」 「とても無理だ」  だがその心配は無用だった。  彼は|僅《わず》か数分後には、深い|眠《ねむ》りの|淵《ふち》に|嵌《はま》ってしまった。若いミュージシャンが|訴《うった》える、この世の絶望を聞き流して。      3  小石が幾つも転がっていて、それが額に当たって痛かった。  おれは|両腕《りょううで》で頭を|庇《かば》い、|伏《ふ》せていた。地面に額を押し付けて、土下座でもしているような|恰好《かっこう》だ。|誰《だれ》に対して、何に対してかは判らない。  三秒も|保《も》たなかった。  |威勢《いせい》のいいことを言っておきながら、|頬《ほお》に最初の傷ができてから三秒も保たずに、|恐怖《きょうふ》に|堪《た》えかねて地面に伏せたのだ。|得体《えたい》の知れないものが襲ってくる、鳥かもしれないし|蝙蝠《こうもり》かもしれない、|或《ある》いはもっと危険な、|凶暴《きょうぼう》な生物かもしれない。なのに自分ではそいつらを|確認《かくにん》できない。|両眼《りょうめ》はしっかり開いているのに、目の前に広がるのは|闇《やみ》だけだ。数も、正面から来るのか|脇《わき》から来るのかも|判《わか》らない。はっきり言ってしまえぽ、そいつらが実在するのかどうかも確かめられないのだ。  闇は恐怖を|増幅《ぞうふく》させた。  おれは恐怖に負けて身を伏せ、息を|詰《つ》めて、襲ってきた生き物をやり過ごそうとした。|震《ふる》えが治まらない。|脱水《だっすい》状態でなければ涙を流し、大声で泣いていただろう。  長い時間待った。だが何も起こらなかった。  実際にはほんの数分間だったのかもしれないが、おれにとっては永久に続くかと思うほど長く待った。だが頬を|掠《かす》める風も痛みもなく、耳元で|稔《うな》る羽音もなかった。何も起こらなかったのだ。  おれは|恐《おそ》る恐る呼吸を再開し、頭を|掴《つか》んでいた指を外して顔を上げた。 「どう……」  |喉《のど》の奥まで|渇《かわ》き切っていて、声を|搾《しぼ》りださなければ|喋《しゃべ》れもしない。 「ユーリ」  |壁際《かべぎわ》にいたらしいサラレギーが近づいてきた。小石を|踏《ふ》み|締《し》める足音と共に、空気中を|漂《ただよ》う熱が伝わる。彼は正面にしゃがみ込み、|大丈夫《だいじょうぶ》かと|訊《き》く前に左手でおれの頬に|触《ふ》れた。指先は冷たくしっとりとしていて、|湿《しめ》った土の|匂《にお》いがした。 「血がでてる」  それから顔をくっつくくらいに寄せてきた。頬に鼻が当たったと思ったら、何か温かいもので傷を|撫《な》でられた。特有の|濡《ぬ》れた|感触《かんしょく》で、|舐《な》められたのだと判った。 「痛い?」 「いや」 「そう、よかった」  おれにとっては全然よくなかった。  確かに視力は失っていたが、|聴覚《ちょうかく》、|嗅覚《きゅうかく》は正常なはずだった。おれにはまだ耳も鼻もある。熱や気配だって感じ取れる。  なのに最初の|一撃《いちげき》以外には、何も感じられなかった。周囲には|獣《けもの》の匂いも気配もない。何の|痕跡《こんせき》も残されていない。 「鳥、だった?」 「さあ。はっきりとは……わたしもほんの|一瞬《いっしゅん》見ただけで、あとは目を|瞑《つぶ》ってしまったから。だって|嗜《くちばし》で|突《つつ》かれたりして、見えなくなったら困るもの」  見えなくなったらね、と繰り返して、サラレギーは小さく鼻を鳴らした。 「でももう行ってしまった。もう大丈夫だよ、ユーリ」 「そんな」  本当か!? と訊きかけて、おれは自分の|膝《ひざ》の周りを見回した。ぐるりと顔を|巡《めぐ》らせても、もちろん何も見えない。しかし同時に、匂いも羽も残されていなかった。両手の指をいっぱいに開いて地面を撫で回してみたが、|掌《てのひら》に当たるのは細かい石ばかり。群れをなし移動した動物が落とした羽毛の一本さえ見つけられなかった。 「そんな、おかしいだろ」  血が|滲《にじ》んでいるはずの右頬にも触れてみた。|塞《ふさ》がっていない傷が、ちりっと痛んだ。 「おかしい? どうしたの?」 「一ヵ所しか……」 「あなたを|避《さ》けて、|両脇《りょうわき》を通り過ぎて行ったんだよ」 「そんなはずない、羽ばたく音もしなかったし、風も感じなかったんだ。匂いだってするだろ? 動物なんだからさ! でも何も感じなかった。最初にちょっとぶつかっただけで、後は何も」 「下を向いていたからじゃない?」 「そんな|馬鹿《ばか》な!」  見えていたときの習慣で、両手を顔の前で開き、指に羽の一本でも|絡《から》み付いていないかと探した。もちろん|無駄《むだ》だった。 「|俯《うつむ》いてたって判るさ。ビビって、動物相手に通じっこない土下座してたって、こんな|狭《せま》い通路を鳥の群れが通過すれば判るさ、わかるって! おれにはまだ耳も鼻もあるんだから! そうだろ!?」 「|普通《ふつう》はそうだね」 「だったらどうして……」  返事をするまでに不自然な間をおいてから、彼は立ち上がり、恐らくはおれを見下ろす角度で言った。 「あなたは今、正気じゃないから」  おれは彼の言葉を、まるで判決を下される罪人みたいに聞いた。 「傷つくと思って言わずにいたけれど、あなたは|疲労《ひろう》と|動揺《どうよう》で正気を失っているんだよ。無理もない、歩き通しで|疲《つか》れている上に、水も食べ物もない。仲間の死という悲劇にも|見舞《みま》われた。こんな極限状態におかれたら、正常でいるほうが難しい。だから視力も回復しないし、|他《ほか》の感覚もあてにならなくなってきた。あんなに|沢山《たくさん》の動物が脇を過ぎて行ったのに、全然気付かなかったなんて言いだす。ユーリ、あなたは疲れてるんだ。自分で自分を責めて、追い詰めて」  サラレギーはおれの頭に手を|載《の》せて、細い指でそっと|髪《かみ》を|梳《す》いた。この体勢は神の許しを|請《こ》う|哀《あわ》れな子羊そのものだ。 「あんな男のことで自分を責める必要はないのに」 「おかしくなってるって……いうのか」 「そんなことは言っていないよ。ただ少し、正気を失っていると」 「同じことだろ」  何かが、狂ってる。何かが。  一つの単語だけが脳の中を回った。|眩暈《めまい》がする。熱射病で|倒《たお》れる寸前みたいに、|身体《からだ》が|揺《ゆ》れた。|頭蓋骨《ずがいこつ》を内側から|叩《たた》かれるような|耐《た》え|難《がた》い痛みが、頭部から首を伝い、背中へと降りていった。  おれはおかしくなってる、まともじゃない。きっとどうにかなってしまったんだ。でなければ今起こったことを感じ取れないはずがない。|猛《もう》スピードで向かってくる動物の群れに|遭遇《そうぐう》して、傷も負わないはずがない。  本当に起こっていたのなら。  身体を|真《ま》っ|直《す》ぐにできないまま、揺れ|幅《はば》がどんどん大きくなり、気付くとおれは固い地面に転がっていた。左腕を下にして横向きに倒れ、そのまま動くことなくじっとしていた。目は開いている。両方とも、しっかりと。でも何も映らない。 「ユーリ」  ゆっくりと膝を腹に引き寄せ、背筋を丸め、小さくなろうとした。この世界に|曝《さら》される部分をできるだけ少なくしようとした。 「あなたの考えていることが|解《わか》るよ」  声が直接耳に降ってくる。サラが|覆《おお》い|被《かぶ》さるように身体を曲げて、土と石の混ざった通路に座った。膝が首筋に当たっている。|飽《あ》きもせずおれの髪を|弄《いじ》り、頬に残っていた数本を耳の後ろに押しやった。彼がいつもそうしていたように。白に近い|金髪《きんぱつ》を細い指で|掬《すく》い上げ、そっと耳に|掛《か》ける|仕種《しぐさ》は、とても|優雅《ゆうが》に見えたものだった。 「ぜんぶ夢ならいいと思っているね」  |鼓膜《こまく》など|介《かい》していないくらいダイレクトに、言葉が脳に|染《し》み込んでくる。 「何もかも|全《すべ》て夢だったらいいと思ってる……国を出たのも、小シマロンでわたしと会ったのも、|一緒《いっしょ》に聖砂国にまで来てしまったのも、夢だったらいいと思っているね。ウェラー|卿《きょう》と別れたのも、あの護衛が死んだのも何もかも夢だったらいいと思っているのでしょう? あなたはまだ故郷の、温かい|寝台《しんだい》の中で、不幸なことはなにも起こっていない。ただ悪い夢をみて|魘《うな》されているだけ。けれどどんなに悲しい夢でも、それは|所詮《しょせん》夢でしかない。いつかは終わる。|隣《となり》に|眠《ねむ》る|誰《だれ》かが、あなたの|肩《かた》をそっと揺すって起こしてくれる」  誰かがおれの肩を揺すって。  起こしてくれる。 「これは全て、明け方に見る|質《たち》の悪い夢。そうでしょう?」  これはすべて、あけがたにみる、 「あなたがそう思いたいのなら、夢でもいいよ」  たちのわるいゆめ。 「誰かが起こしてくれるまで、わたしと一緒にいればいい」  だれか。  ……ちゃ……ん、けん……ちゃん。 「健ちゃん!」 「あっ、うわぁ、なに? |遅刻《ちこく》!?」  呼んでいたのはロドリゲスだった。村田は心底|驚《おどろ》いて|跳《は》ね起きた。車内のエアコンが強すぎたのか、シャツの背中に|汗《あせ》をかいている。ただ座っていただけなのに、|動悸《どうき》が早まり息が苦しい。全力|疾走《しっそう》直後みたいだ。 「びっくりした、夢の中で呼ばれてるのかと思った」 「驚いたのはこっちだよ。魘されてたと思ったら、急に起きて遅刻なんて|叫《さけ》ぶから。学校の夢でもみてたの?」 「いや|違《ちが》うよ、そうじゃなくて……ああ」  窓の外に広がっていたのは、ボストンとは百八十度違う光景だった。赤い|石畳《いしだたみ》の町並みは美しく、新しいのにどこか|懐《なつ》かしさを感じさせる。近くに高層ビルがなく、市街は緑で囲まれていた。リゾート地という印象だ。 「あれ? ここどこ?」 「ホテルだよー。フリーポート、メイン州。大統領パパのサマーハウスはちょっと前に通り過ぎちゃった」 「どうせ遠すぎて見えないんでしょ」 「まあねー」  広い|芝《しば》の|敷地《しきち》の奥に、白と赤の建物があった。屋根は背後の森より低い位置にある。ポートと名が付くだけあって、時折風の中に潮の|匂《にお》いが|紛《まぎ》れ込む。 「仕事終わりが五時だから、先方とここで待ち合わせ」 「ここのカフェは|美味《うま》いと評判でありますよ!」  先に降りていたオールセンが、|自慢《じまん》げに言った。村田も車から出て背筋を|伸《の》ばす。体中の筋という筋が|凝《こ》り固まっていて、|解《ほぐ》れる音が他人にまで聞こえそうだ。  会うと約束した男は、果たして本当に「あれ」を持って来るだろうか。  灰を、|或《ある》いは断片[#「断片」に傍点]を。  古いレコードか年代物のラジオから流れるクラシック、ソプラノ歌手が歌うオペラみたいな音楽が、どこか遠くで流れている。今までの出来事がおれの夢なら、この音楽が現実で、目覚まし時計代わりなのだろうか。  誰かが歌っている。頭の中で、誰かが。  その人は空を見上げる、昼間の晴れた空を。だが深い水色と真っ白な雲があるべき天には、白とも青ともつかない|薄《うす》い幕が広がるばかりだ。おれには|判《わか》った。それは南の海で|沖《おき》に出た時に、波|飛沫《しぶき》と海水が混ざり合った色だ。  それは海と波が混ざり合った色だよ。おれは彼女に教えてやろうと、声を張り上げる。  そうなの? と彼女が答える。だが彼女の姿は見えない。おれは自分の耳で聞き、自分の目で見ているけれど、同時にこれは彼女の耳と目だ。  彼女が言う。そうなの? 知らなかった、みたことがないから。でもこれは私の空の色。中央に少し色の違うところがあるでしょう? あれが太陽。たぶん真っ白。私はあれを白と呼んでいるの。それからほら、あれを見て。  言われておれは首を曲げる。視界の半分はごく薄い灰色になった。|頬《ほお》に当たる風と同時に動く。わかった、木だね?  彼女は笑う。|大袈裟《おおげさ》なくらい喜んで、そうよ! と手を叩く。そこに木があるの。もう百年近くずっとあるのよ。葉っぱの|隙間《すきま》から光がちらちら|覗《のぞ》くでしょう? 私にとって、木はこの色。みんなは緑だって言うけれど。春は花の匂いがして、夏は生命の匂いがするの。秋は|枯《か》れてゆく死の匂い、冬は眠りの匂いがする。  眠りの匂いって? おれはポケットに両手を|突《つ》っ込んだまま|訊《き》く。何もかもがぼんやりとしていて、はっきりとは見えない。でも不安じゃない。|何故《なぜ》だろう。  彼女はまた笑う。それは眠ってみなければわからないわ。でもひとつだけ教えてあげられる。眠りの匂いがわからない、それはあなたが眠っていないからよ。  夢をみていないからよ。  ……みていない。  おれは夢なんかみていない。 「現実だよ」  胸の辺りに焼けるような痛みを感じて、おれは身体の|下敷《したじ》きになっていた方、左手でその原因を|握《にぎ》り|締《し》めた。ヘイゼルが取り|戻《もど》してくれた|魔石《ませき》が、体温よりもずっと熱くなっていた。逆に小指に|嵌《はま》った|華奢《きゃしゃ》な指輪は、|凍《こお》りつくほど冷たくなっている。  |腕《うで》を|抜《ぬ》いたせいで身体は|傾《かたむ》き、サラレギーの|膝《ひざ》に乗り上げるような形で|仰向《あおむ》けになった。見上げた地下通路の|天井《てんじょう》は、行く先や来た道と同じ|闇《やみ》だったが、じっと|見詰《みつ》めているとそれにも色の|斑《むら》があることに気付いた。  上下左右に広がる黒のうち、おれの右手に当たる方角は|徐々《じょじょ》に色を薄くしていっている。首を曲げて変化を追うと、黒は|僅《わず》かずつ灰色になり、灰色は一ヵ所で白に近い点になっていた。 「あそこに……」  太陽がある。  口に出してそう言おうとしたのだが、|渇《かわ》きすぎて声にはならなかった。 「ユーリ?」  行かなきゃ。これも言葉にならなかった。だからおれは|黙《だま》って|肘《ひじ》を突き上半身を持ち上げ、両膝を曲げて脇と讐力をためた。|遂《つい》に立ち上がるのには成功したが、|脚《あし》はふらつき、|身体《からだ》を|真《ま》っ|直《す》ぐには保てない状態だった。もう何十時間も動いていなかったような、自分が歩き方を忘れた馬にでもなったような気分だった。  それでもどうにか右手の先に|壁《かべ》を|探《さぐ》り当て、頭上の白い点に向かって歩き始める。 「まだ歩くの? 歩けるの?」  何度も|咳《せ》き込んで、やっと|嗄《しゃが》れた声がだせるようになる。 「だって|寝《ね》てるわけにいかないだろ、ここを|脱《ぬ》けなきゃ。お……お前、だって」  無理に|喋《しゃべ》ったせいで、喉にひび割れるような痛みが走った。 「おれを背負っては、歩けないだろ」  感覚が|研《と》ぎ|澄《す》まされたおれの耳には、サラレギーが|面白《おもしろ》くなさそうに鼻を鳴らすのが確かに聞こえた。その|瞬間《しゅんかん》から彼の口調に不満と|傲慢《ごうまん》さが混ざり、親しげな調子が消えた。 「|厄介《やっかい》な人だね」 「……なんだって?」 「動けなくなるのを待ってたけど、あなたはなかなか|倒《たお》れない。意地でも歩くつもりでいるし、|這《は》ってでも進むつもりでいる」  服が|擦《こす》れる音と一緒に、|微《かす》かな汗の匂いが届いた。汗なんかかくんだ……ぼんやりと思う。まるで似合わない。似合わないといえば、彼がいま話してることもそうだ。あの|繊細《せんさい》で|優《やさ》しげな|面《おも》|差《ざ》し、|綻《ほころ》ぶ直前の花弁みたいな|唇《くちびる》からこんな言葉がでるなんてとても信じられない。 「あの男が死んだとき、これでうまくいく、やっと追い詰めたと思った。なのに信じられない|強靭《きょうじん》さで立ち上がる。|駄目《だめ》にならない」 「……そんな……簡単にっ」 「だって死んだよ。あなたのせいでね」  そうだよ、おれのせいだ。 「都合のいいことに目まで見えなくなった。ここまでくればどんな人だって弱気になる、今度こそはと思ったのに。まだ|頑張《がんば》るの。へーえ、そう、立派だねユーリ。全然わたしに|縋《すが》ろうとしない」 「縋るって」  おれは岩の突き出た壁に|右肩《みぎかた》を押し付けている。もう独りじゃまともに立てもしない。進むのだって|亀《かめ》より|遅《おそ》いだろう。|脱水《だっすい》症状《しょうじょう》を起こして|嘔吐《おうと》し、倒れ、|幻覚《げんかく》を見た。手足は|震《ふる》え、ろくに喋れもしない。まともな思考能力も、視力も戻らない。  ヨザックを失った。  これ以上の不幸があるか? これ以上のどんな|惨《みじ》めな姿を見たいっていうんだ。  なのにサラレギーは言う。 「あなたは折れない。ほんとうに立派で厄介な精神を持ってる」 「持ってたら……っ」  立派なこころだって? そのご大層なものをおれが持っていたらどうなる? |魔術《まじゅつ》でも使ってここから一発で脱出できるのか。それともこの手で時間を|操《あやつ》って、|過《あやま》ちを|犯《おか》す前まで巻き戻せるのか。  だが現実はどうだ。できることといえば喋る、咳き込む、息を|吐《は》く、この|繰《く》り返し。  |流石《さすが》にサラレギーもその点には気付いているのか、同情するような口調で言った。 「でも身体は限界みたいだね。それはそうだよユーリ、どれだけ飲んでいないと思う? 自分では日にちの感覚がないのかもしれないけれど、あなたはもう五日も、何も口にしていないんだよ」 「お前だって、同じだろ」 「わたしが同じだと思っていた?」  何が|可笑《おか》しいのか、小シマロンの少年王は身体を折って笑った。 「わたしが同じだと?」  まとめていたはずの|髪《かみ》が解けたのか、空気を縦に細く切る。彼はおれの手首を|掴《つか》み、|掌《てのひら》を開かせ、その中央に少量の何かを落とした。|皮膚《ひふ》に|触《ふ》れると横に広がる、形があるようで無い物。おれはそれを掴もうと指を丸めるが、掌に残るのはじっとりと|貼《は》り付く|濡《ぬ》れた幕だけだ。  ……濡れた? 「……水?」 「そうだよ、土混じりだけどね」  |慌《あわ》てて口元に持っていくが、|啜る《すす》ろうにも手に残ったのは僅かな|泥《どろ》だけだった。|顎《あご》を|汚《よご》した|間抜《まぬ》けな顔で、おれはサラレギーに詰め寄った。見えない|瞳《ひとみ》は欲望に|輝《かがや》いているだろう。 「な、んで、水を!?」 「落ち着いて、ユーリ。汚れてる」  彼はおれの唇を親指で|拭《ぬぐ》った。身体が近付いたと|認識《にんしき》した瞬間、自分でも止めようがない|衝動《しょうどう》で、おれはサラレギーに掴み|掛《か》かっていた。駄目だ、こんなことをしちゃいけない! 水のために相手を|襲《おそ》うなんて、人間のすることじゃない。動物並みじゃないか。頭の中ではそう|叫《さけ》んでいても、理性で本能は|制御《せいぎょ》できなかった。 「おっと」  しかし見えている者は、見えざる者の腕を|容易《たやす》くかわせる。彼は小石を|弾《はじ》いて飛び|退《すさ》り、おれはよろめいて壁にぶつかった。 「あなたは見えていなかったし、|魘《うな》されていた。わたしは何度も水を飲みに行ったけれど、あなたは気付かなかった」 「……そんな……川の音なんか、まったく」 「だって流れていないもの。道の|隅《すみ》っこに時々、赤土の混入した|井戸《いど》の|痕跡《こんせき》があるだけだもの。あなたの耳には聞こえない、あなたの鼻では|湿《しめ》った土の|匂《にお》いしか|嗅《か》ぎ取れない」 「よこせ!」  声を|頼《たよ》りに|懲《こ》りずに手を|伸《の》ばすが、|焦《あせ》った神経では|到底《とうてい》正確な位置などつかめない。おれの腕は|虚《むな》しく空を切った。 「|畜生《ちくしょう》ッ、くれよっ! 少しくらい分けてくれたっていいだろ!?」 「分ける? そうだね」  サラレギーは言った。 「倒れて、わたしに頼ってきたら、縋ってきたら助けてあげようと思っていたけど、あなたときたらいつまで待ってもそんな|素振《そぶ》りもみせないんだもの。仕方がない、ユーリ。水を分けてあげる」  いつもどおりの|綺麗《きれい》な声だ。 「死んじゃったらつまらないものね」  事も無げにそう言い放って、彼はおれの顎に指をかけた。 「口をあけて」  泥混じりの水が流し込まれ、舌に、喉に、じわりと水分が|染《し》みた。生ぬるい、けれど|充分《じゅうぶん》冷たい。 「もっと?」  足りない。とても足りない。 「こんな、少しじゃ……」 「欲張りだね、ユーリ」  |肩《かた》を掴み、|揺《ゆ》さぶろうとして失敗した。壁から|離《はな》れた身体は支えを失い、そのままずるずると|崩《くず》れて|膝《ひざ》をつく。彼の|腰《こし》にしがみつき、腹に顔を|擦《こす》り付けた。ゆっくりと首を振る。 「足りない」 「いいよ、もっとあげる。じゃあこうしよう、わたしの質問に正しい答えがだせたら、好きなだけ飲ませてあげる」 「なんですぐくれないんだ、なんですぐくれないんだよ? もっとあるなら……もっと……」  サラレギーはおれを|黙《だま》らせようと、口に手を当てた。指先は濡れていた。おれはそれも|舐《な》めた。水なら何でもいい。 「聞いて、面白い話があるんだ。昔、この聖砂国で一人の女が男の|双子《ふたご》を産んだ。別に|珍《めずら》しくもない、神族は双子ばかりだからね。|他《ほか》と少し|違《ちが》っていたのは、彼女の夫は傷ついた兵士で、大陸に流れ着いた|余所者《よそもの》だったことくらい」 「なんだよ、そんなのどこででも聞く。そんなことより」  サラレギーの服を掴んだ。汚れて土の詰まった|爪《つめ》が、|焦《じ》れて布を引っ|掻《か》く。  |剣《けん》しか取り|柄《え》のない人間と|恋《こい》に落ちた魔族の話も、追放された土地で人間の|娘《むすめ》と結ばれた魔族の話も知っている。|素人《しろうと》にしてみれば|厄介《やっかい》なのは人の|恋愛《れんあい》感情だ。おれの心などではなく。 「この先が|面白《おもしろ》いんだよ、ユーリ。女は母親になったけれども、女の産んだ子供のうち、一人はすぐに|産声《うぶこえ》をあげ、もう一人は半日|経《た》っても泣き声をあげなかった。半ば死んでいたんだ。彼女はどうしたと思う?」 「……|嘆《なげ》き悲しん、だ……?」 「はずれだ」 「どうして? 悲しむだろ!」  サラは首を振り、おれの|前髪《まえがみ》を指で掻き上げた。 「女は悲しんだりしなかった。二人の|息子《むすこ》を|抱《だ》いて、先祖の墓へと走ったんだ。生者は通れないという|呪《のろ》われた道を馬で|駆《か》けたんだよ。勇ましいね!」 「子供を、|埋葬《まいそう》するために?」 「そうじゃない。それだけで満足するような女じゃなかった」 「他にどうするっていうんだ。静かに|眠《ねむ》らせてやりたいだろ、親心ってもんだろ、他に……」 「そう慌てないで」  サラレギーの小指と親指が、左右の|顳※[#「需+頁」、Unicode:U+986C]《こめかみ》を|捉《とら》えた。爪の先が|目尻《めじり》を|掠《かす》める。痛みを感じて視線を……見えはしないのだが、|逸《そ》らすと、|遥《はる》か先方の右の空に白い点があった。あの人が太陽と呼んでいた白だ。  おれは何をしている?  水のためだとはいえ、いけ好かない|奴《やつ》に|媚《こ》びて、|縄《すが》りついて。これこそサラレギーの望んでいた状態じゃないか。その支配者が、|柔《やわ》らかい指の腹でおれの|眼窩《がんか》を|辿《たど》りながら言った。 「死んで生まれた息子を先祖達と|一緒《いっしょ》に、静かに眠らせてやるなんて、それで満足するような女じゃなかった。彼女は息子を生き返らせようとしたんだよ。神と、死者と、自分自身の法力を使って」 「そんなことが、できるなら……っ」  おれだってそうしている。|誰《だれ》だってそうしている! 「その結果、どうなったと思う?」  一度|頷《うなず》く、でもやはり首を振る。不可能だ。 「そんなことはできない、生き返ったりしない」 「正解。ユーリ、どっちを向いているの。わたしを見て。死んだ子供は生き返らなかった、でも死者の世界に連れ去られもしなかった。この世に|遺《のこ》されはしたものの、決して生きてはいない。ではどうなったのか」  彼は|一旦《いったん》言葉を切ってから、自分自身で答えを出した。 「|怪物《かいぶつ》を造ってしまったんだよ」  指が眼窩に食い込み、おれは反射的にその手を振り|払《はら》った。生命を|握《にぎ》られているような気がしたのだ。 「彼女は怪物を造り上げてしまったんだ、二つの怪物をね!」 「子供二人とも? どうして」 「怪物がどちらも息子だなんて、わたしは言ったかな。一人は息子だよ、半ば死んで生まれた|赤《あか》ん|坊《ぼう》。でももう一人は、他ならぬ彼女自身だ。今や彼女は神族が持つ|法力《ほうりょく》以上の力を持ち、|醜悪《しゅうあく》な死者達を意のままに操る。死んで生まれたはずの赤ん坊は、母親ほど|邪悪《じゃあく》ではないにしろ、やはり絶大な力を持つ君主だ。墓の中で何があったかは知らないけれど……」  おれには人の顔が見えない。ましてや暗い中にいる者の表情などとても|判《わか》らない。でもこれだけは容易に推測できた。今のサラレギーは水を欲しがるおれどころではない、もっと|獣《けもの》じみた|眼《め》をしているだろう。  そう、彼は力が欲しいのだ。 「生き返る以上の|収穫《しゅうかく》だよ!」 「……そうかな」 「もちろんそうさ。だって彼女は何より力のある|跡取《あとと》りが欲しかったんだからね」  そして彼は、|羨《うらや》んでいる。  自分の持たない力を手に入れた者を。  法力が無いからと自分を捨てた母親と、自分を|超《こ》える力を得た弟を。 「ただ生き返ってほしかっただけじゃないのか?」 「そんな。どこにでもいる|普通《ふつう》の子供など望むわけがないじゃないか。赤ん坊の死も悲しまなかった女、生き残ったほうの子供さえ、力がないからと捨てようとした女だよ?」 「それは違う」  ほぼ反射的に答えていた。おれがその家族の事情など知るはずもなく、母親の弁護をする理由もなかったのに。 「違うよ、サラレギー」  お前に何が|解《わか》ると|詰《なじ》られても仕方がない。でも自分がここで話さなければ、あの光景は誰の胸にも伝わらないのだと思うと、黙っているのは|卑怯《ひきょう》だと感じた。  だから言った。こんな地底の、光も差さない|闇《やみ》の中だからこそ、いつもの自分らしくいるのが重要だと思ったから。 「母親は悲しんだ。悲しまないはずがないだろ。赤ん坊を抱いて、泣きながら神様に|祈《いの》ったんだ。自分にはこの子達しかないのにって」  助けて、この子をどうか助けて。  神よ、ようやく|授《さず》かった息子を、|何故《なにゆえ》私の|腕《うで》から取り上げようとなさるのですか?  私にはこの子達しかないのです。私には|貴方《あなた》と、この子達しかございませんのに!  後ろ姿の若い母親は、地面に|膝《ひざ》をついて泣き崩れていた。胸に赤ん坊を抱きしめているらしく、上半身を丸めるようにしていた。あの夢だ。 「おれは見た」 「見たってどこで。信じると思う? そんな作り話」 「お前の話が本当で、彼女が先祖の墓目差して駆けた……生者が通ることを許されない道というのが|此処《ここ》のことなら、おれは見たよ。母親が泣くのを。赤ん坊を抱いて嘆き悲しむのを」 「|嘘《うそ》ばかり!」  明らかに|動揺《どうよう》しているサラレギーの声を、おれはどこか不思議な気持ちで聞いていた。 「嘘じゃない。|普段《ふだん》のおれなら意味深な夢見ちゃったよ、どんな映画の|影響《えいきょう》かな、スポーツ感動ものしか|観《み》てないのになーって。それで済んじゃう話だ。でも|生憎《あいにく》と今はそんな|余裕《よゆう》ない。そんなドラマあったっけとか、推理してやってる余裕はないんだ。見たんだよ、母親は息子達を愛してた。この子達しかないのにって泣いて……」 「わたしを|騙《だま》そうとしたって、そううまくはいかないよ!」  |握力《あくりょく》などろくに無さそうな細い指が、おれの|顎《あご》と首筋に|掛《か》かった。|岩壁《いわかべ》に強く|叩《たた》きつけられ、背骨が悲鳴をあげた。|喉仏《のどぼとけ》が|圧迫《あっぱく》されて呼吸が止まる。 「……サ、ラ……っ」 「愛してたならっ」  そんな理由もないのに、今にも泣きだしそうな|叫《さけ》びに聞こえた。 「だったらどうして彼女は、その力をわたしにも|与《あた》えようとしなかった!?」 「そ……」  その|瞬間《しゅんかん》おれは、信じられないような行動をとった。相手の腕を|肘《ひじ》で内側から|弾《はじ》き、そのまま|前腕《ぜんわん》を|絡《から》めてサラレギーの二の腕を固定し、手首を|掴《つか》んで背中で|捻《ひね》りあげていた。  頭では何も考えていない。ただ息が苦しいと思っていただけなのに、条件反射なのか|身体《からだ》が勝手に動いて、加害者を|締《し》め上げていたのだ。  一体どこにそんな体力とテクニックを|隠《かく》していたのか自分でも判らない。もしかして|泥《どろ》にカロリーがあったのかもしれない。物は|試《ため》し、好き|嫌《きら》いせず|喰《く》ってみるものだ。 「そんな力、欲しいのか!?」 「痛っ」  腕の中で細い身体が苦しげにもがく。|酷《ひど》いことをしている、放してやるべきだとも思うのだが、腹の底からこみ上げる|怒《いか》りがそれを許さない。 「|凄《すご》いったって死者を操る力だろ? そんなもののどこが羨ましいんだ、欲張りなのはおれじゃなくてサラ、そっちだろ!」 「ユーリっ、痛い」 「誰だって権力は欲しいさ、おれ……だって……だが我が身に授からぬ力など、世に、あってはなら……ぬ」 「ユーリっ」  この|肌《はだ》の下に感じる|違和感《いわかん》は何だろう。|先程《さきほど》の、「眼」を共有したときとは似て非なる感覚だ。これはおれの喉、おれの口なのに、同時に他人の肉体でもあるようなもどかしさ。発する言葉が我が物ではない|不愉快《ふゆかい》さ。覚えがある。初めて神族に会ったときにも、同じ状態に|陥《おちい》った。 「持つ者は|全《すべ》て、退けよ」  誰だ。 「死を|以《もっ》て……|排除《はいじょ》、せよ」  誰がこんな|恐《おそ》ろしい|呪《のろ》いを|吐《は》いている!? 「それが本当のあなたなの?」  おれの|当惑《とうわく》を|余所《よそ》に、小シマロン王は|物騒《ぶっそう》な人格に反応した。おれの|頬《ほお》に柔らかな|髪《かみ》を|擦《こす》りつけ、|肩越《かたご》しに|誘惑《ゆうわく》してくる。 「なんだ、そうだったんだ。だったらわたしたちは同類だ、もっと親しくなれる」 「おれは……っ、違……」 「ねえ、一緒にこの地下通路を|脱《ぬ》けて王族の墓に行こう。誰にも見られず、誰にも知られずに。そこで母上やイェルシーと同じ……それ以上の力を手に入れるんだ。きっとあそこには、先祖の|霊《れい》でさえ手の出せなかった何か、神秘の力が隠されている」  |蛇《へび》の|誘《さそ》いさえ甘く聞こえた。 「あなただって気付いているんでしょう。墓の中には何かがあるって。この世の誰も得られなかった至宝が。ね、ユーリ」 「やめろ」  ユーリ。 「名前を、呼ぶな」 「ユーリ!」  だが今度の呼び声はサラレギーのものとは異なっていた。おれの名前を|叫《さけ》ぶ音は、頭上高くから降ってきた。  見えないのを忘れて|振《ふ》り返ると、おれが太陽だと決めた白の真下に、小さな赤い点が生まれている。|灯《あか》りだ、直感的に|悟《さと》った。あの色は火だ。  ドームの|天井《てんじょう》に開いた穴から、|誰《だれ》か人が降りてきたのだ。  針で突いた穴くらいだった灯りはどんどん広がり、暖かく明るい|榿色《だいだいいろ》になった。もう|拳《こぶし》程の大きさだ。|炎《ほのお》の形もはっきりと|確認《かくにん》できる。 「ユーリ、そこにいるんですか?」 「コ……」  誰かと問う必要はない、声で判る。それでもおれは|訊《き》いた。 「コンラッド?」 「俺です」  |但《ただ》し視界に入っているのは、照らされて炎の色に同化した人型だけ。ぼんやりと|輪郭《りんかく》の|曖昧《あいまい》なオレンジが走って来る様は、サーモグラフィーの画面そのものだった。 「ご無事でしたか!」 「|大丈夫《だいじょうぶ》。でもどうして」 「|遅《おく》れてすみません。ヘイゼルと仲間に|砂漠《さばく》を案内してもらったんですが、|迂回《うかい》するポイントが多く|殊《こと》の外手間取ってしまって。どこかお|怪我《けが》は」  慣れた体温が|労《いたわ》るように|肩《かた》に|触《ふ》れる。  これは右の|掌《てのひら》。悪夢のような光景とは|関《かか》わりのない|右腕《みぎうで》。左より温かい。 「ユーリ」  返事をしようとCで始まる単語を口の中で|呟《つぶや》いたら、|涙《なみだ》がでそうになった。小学生なら持ち|堪《こた》えられずに泣いている。陛下って呼ぶな、いつもどおりそう言ってやりたいところだが、こんな時に限って彼は|間違《まちが》えない。 「怪我は、ないよ」 「良かった、すぐ上にお連れします。ところで」  |語尾《ごび》が小さくなり|僅《わず》かに|口籠《くちご》もる。とはいえ、顔を見て|喋《しゃべ》っていたら気付かないほどの|動揺《どうよう》だ。短い|沈黙《ちんもく》の間に彼は何事かを察し、先の言葉に続く疑問を|咄嵯《とっさ》に変えた。 「彼は何を」  サラレギーのことを訊いているのだろう。よりによって温厚派のおれに捻り上げられていれば、|不審《ふしん》にも思う。おれは骨格からして|華奢《きゃしゃ》な身体を突き飛ばした。 「こいつを、サラレギーを先に地上に」 「陛下、まだ……」 「違う、友情で言ってるんじゃない。|逃《に》がすわけにいかないから|頼《たの》んでるんだ。この男を野放しにはできない。こいつを|拘束《こうそく》して、見張りを付けてからもう一度降りて来てくれ、いいよな? コンラッド」 「もちろん」  小さな悲鳴と共に、低い所で風が起こった。おれなんかよりずっと|荒《あら》っぽいことに慣れた手で首根っこを|掴《つか》まれたらしく、サラレギーが|両脚《りょうあし》をばたつかせているのだ。 「わたしは行かないよ、行かない! わたしは地下を行く、砂漠で砂に|塗《まみ》れるのなんかごめんだもの」 「落とされたくなければ大人しくしていなさい」 「そうだ、ウェラー|卿《きょう》も同行すればいいよ、あなたもついておいで、わたしたちの旅に。そうすればユーリも|淋《さび》しくない。でしょう?」  サラレギーの|戯言《ざれごと》に|応《こた》えるのはおれだ、おれであるべきだ。 「残念だけどサラレギー陛下[#「陛下」に傍点]、きみ[#「きみ」に傍点]の助言は受けかねる。それと」  この五日間で初めて|安堵《あんど》の息を吐いて、おれはようやく身体の力を|抜《ぬ》いた。 「お前からはもう水の|一滴《いってき》も|貰《もら》わない」  |壁《かべ》に寄り掛かり顎を下げると、立ち暗みに似た苦痛に|襲《おそ》われる。指一本動かしたくない気分だった。 「コンラッド、なるべく早く|戻《もど》ってきてくれ、話が……話があるんだ」 「はい」 「ほんとに早く戻ってきてくれよ」  訓練を受けたプロに拘束され、自由が|利《き》かないままのサラレギーが割って入った。|些《いささ》か興奮気味だ。 「話ってなに、|内緒《ないしょ》なの? どんな密談? ああもしかして」  ヒステリックな|喘《わら》い声。 「あの男を死なせたってことかな?」      4  お国違えばマニアも違う。  情報提供者に会った最初の感想はそれだった。  会ったといってもきちんとした場所で|紹介《しょうかい》し合ったわけではなく、たまたま|駐車《ちゅうしゃ》場で出くわしたという|慌《あわ》ただしさだ。  就業時間が終わっても、情報提供者は待ち合わせたカフェに現れない。村田とロドリゲスとマシュー・オールセンは、白いテーブルクロスに|頬杖《ほおづえ》をついて、|居心地《いごこち》の悪い思いをしながら待ち続けた。村田はカフェオレ三|杯《ばい》目で、甘い物に目がない小児科医は、チョコレートムース、チーズケーキ、ティラミスをクリアしていた。  |気詰《きづ》まりだからもう一つパイでも頼もうか、ホールで。と|超《ちょう》甘党が言いだした時だった。  街から来た客が興奮した口調で、大きな火事だと店員に告げた。 「火事っていうより、ありゃあもう火災だな」 「火災? 大変、怪我した人はいるの」  シックな制服のウェイトレスが顔色を変えた。ウィークデイだとはいえ、この街にはボストンから買い物に来ている客も多い。人的|被害《ひがい》は|即座《そくざ》に評判に|繋《つな》がる、観光地としては命取りだ。 「ややや、S・S・ボーンの|敷地《しきち》内だから」 「なーんだ」  店中に安堵の空気が広がった。大事にならなくて良かったねと村田自身も胸を|撫《な》で下ろした。何しろ情報の内容が内容だ、火には特に|敏感《びんかん》になっていた。しかし逆にここまで安心されると、余所者としては少々興味が|湧《わ》いてくる。  名前を聞いただけで|皆《みな》が|脱力《だつりょく》する存在、S・S・ボーンとは一体どのような会社なのか。ボストン在住らしいマシュー・オールセンに|尋《たず》ねようとして、村田とロドリゲスは彼の態度がおかしいことに気付いた。ゆで卵を丸ごと飲み込んだみたいな顔をしている。 「マシューどうしたのー?」 「え、S・S・ボーンはまずいでありますッ」 「え? それはL.L.ビーンをパクったと思われるネーミングがってこと? それとも株価の話かな」 「健ちゃん、パクじゃなくてインスパイア、インスパイアだから」 「自分としてはネーミングと言いたいところでありますが、残念ながらそこはグレイゾーンでありますッ。と、それよりもS・S・ボーンは、情報提供者であるホルバートの勤務先で」 「じゃあ火事に巻き込まれてる可能性もあるの!? それを早く言ってよマシューぅ」  というわけで一行が大慌てで|駆《か》け付けた先では、ボーン社の|施設《しせつ》が燃えていた。厳密にいうと、社屋の真正面に置かれている、|巨大《きょだい》な骨のオブジェが火の粉を上げて|炎上《えんじょう》していた。全長五メートルというサイズと、骨付き肉を模したデザインに目を|瞑《つぶ》れば、アウトドアな|火葬《かそう》に見えなくもない。 「……ていうよりバーベキューかなあ」  誰もが一度は|憧《あごが》れる、原始時代のあの|灸《あぶ》り肉だ。どうせ被害はオブジェだけなのだし、他人事だと割り切れれば、暮れかけた空に燃え上がる|炎《ほのお》が美しい。  しかし彼等には割り切れない理由があった。 「いましたでありますッ」  発見したのは、顔見知りであるマシューだった。  情報提供者のホルバートは元々、マシュー・オールセンが共同経営者として名を連ねている店の常連客だ。マサチューセッツ州最大規模のオタ……ジャパニーズサブカルチャーショップ、その名も「テーラーズ」。書店なのに。この店には国際的銀行マン略してグロギンマンである渋谷|勝馬《しょうま》の勤め先も、|微少《びしょう》ながら出資している。経済的には日米共同参画、表向きは日本とアメリカ合衆国の|虹《にじ》の|架《か》け橋だ。  店長のヨナサン・テーラーはスキンヘッドのくせに|無精髭《ぶしょうひげ》というどっちつかずな男だ。オープンの|経緯《けいい》を知る数少ない友人達には、ムショ帰りのヨナサンなどと呼ばれているが、彼女ができる前から育児書を読み|耽《ふけ》るといった子供好きの一面も持っている。  |口癖《くちぐせ》は「これ|剃《そ》ってるんだからね、ハゲじゃないんだからねっ」。その一声を聞いた|途端《とたん》、一見さんは感動と共に皆こう|漏《も》らす。 「オーウ、エクセレント・ツンデレー!」  日本文化は誤解されていた。それはツンデレではない。  ボストンのダウンタウンという立地のせいで、テーラーズの客にはハーバード大学、マサチユーセッツ工科大学等、周辺の学校に|在籍《ざいせき》する学生も多い。|謂《い》わば、合衆国の頭脳たるマニアが通い|詰《つ》める店。世も末である。  ホルバートも当初はそういった客の一人だった。  |他《ほか》の常連にゴッグというニックネームをつけられても、本人はきょとーんとしていたところをみると、モビルスーツ目当てではないらしい。|店舗《てんぽ》の健全経営のために手広くやっているから、美少女フィギュアやトレーディングカード好きの客がいてもおかしくはない。最初に|ら、美少女フィギュアやトレーディングカード好きの客がいてもおかしくはない。最初に|訊《き》いたときにマシューが|困惑《こんわく》した顔で、あまり親しくないと首を|振《ふ》ったのは、どうやらその辺に由があるようだ。  マシューに見つけてもらえるまで、ホルバートは車も|疎《まば》らな駐車場の中央で、ポケットに手を|突《つ》っ込んで立っていた。お約束というか案の定というか、やっぱりドーナツを|齧《かじ》っている。 「ミスター・ホルバート!」  呼ばれて振り向いた男は、外国人力士として|充分《じゅうぶん》に通用しそうな巨漢だった。とはいえ、|脂肪《しぼう》だらけというわけではない。肩と首のラインは曖昧だが、D&P(ドーナッツ・アーンド・ピッツァ)生活者にしては、まあまあの|堅太《かたぶと》りを|維持《いじ》している。若さの|恩恵《おんけい》だろう。三十過ぎたら|地獄《じごく》だ。  ホルバートは車と|野次馬《やじうま》から|離《はな》れ、小走りでやってきた。  とにかく色が白くて巨漢なので、ちょっと走っただけであっという間に顔も|腕《うで》も赤くなる。|控《ひか》えめにいえばファーマー風で気のいい大男。有り|体《てい》にいえばやたら血色のいいデブ。しかももうすぐ十一月という|肌寒《はだざむ》い季節に半ズボン。ハーフパンツというより半ズボン。でも本人的には何ともないようだ。 「やあ」  マシューにドーナツを振ってみせ、村田とロドリゲスにはアームレスリング全米チャンピナン並みに太い右手を差し出した。  生まれついての|金髪《きんぱつ》一族特有の顔で、|眉毛《まゆげ》が|殆《ほとん》ど目立たない。|秀《ひい》でた額の下の奥まった場所に、色素の|薄《うす》いブルーの|瞳《ひとみ》があった。鼻から|唇《くちびる》までが長く、顔は少々|猿《さる》系。  日本の中学校で教師でもすれば、入学式当日にニックネームを貰えるだろう。  その名も、ゴリ! 「どうも、ゲルハルト・ホルバートだ」  改め、ゲル! 「でも|普段《ふだん》はゲイリーと名乗ってる」  ……改め、ゲリ。 「だってドイツ人でもないのにゲルハルトって、ちょっとどうかと思うだろう? でも気にせず好きな名前で覚えてくれ。何ともないから」  村田は表情に|乏《とぼ》しいと言われる日本人観を|覆《くつがえ》すべく、必要以上の|笑顔《えがお》で|挨拶《あいさつ》をした。 「モーニング、ゲリ」 「今は夕方だぞ? それに|渾名《あだな》はゴッグだ」  すぐに|訂正《ていせい》されてしまった。 「火事は|大丈夫《だいじょうぶ》なの、ゴッグ?」 「うーんまあ正直、会社のシンボルだから痛手でないといえば|嘘《うそ》になるが……でも大丈夫」  ゲリ・ホルバートは、ぐっと親指を立ててみせた。 「何ともないぜ!」 「さすがゴッグだー」  小児科医とマシュー・オールセンは、|何故《なぜ》かうっとりとした顔だ。村田だけが一人ついていけない。 「ただ一応は関係者だから、勤め先の火事をほっぽって帰るわけにいかないんだ。時間に|遅《おく》れて悪かったな」 「関係者というと、|社長《シャチョ》さん?」  村田の水商売トークに、ホルバートは奥まったブルーの瞳を照れたように細めた。 「いやー、|違《ちが》うよ。俺は三年前からここのディスカバリー・スクールで講師をやってんだ」 「ああ、レスリングとか」 「いや、|狙撃《そげき》」 「そ……」 「人気のクラスなんだ。女にモテるし、モンキー東條みたいで格好良いからだろうな」  そんな|殺し屋《ヒットマン》聞いたことがない。後ろに立ってはいけない人とは、東一文字しか合っていない。自分の額に風穴が|飽《あ》きそうな|冗談《じょうだん》を言い、ゲイリー・ホルバートは背筋を反らして笑った。狙撃って、アウトレットモール中心のリゾート地にあるスクールで教えてもいいものなのだろうか。 「話ってのはこれに関してだ」  ホルバートはポケットから油紙の包みを取り出した。 「ああっ、そんなぞんざいにして」 「大丈夫だよドクター、火に近付けさえしなければ」 「え? あ、火に近付けちゃいけない?」  急に言われて|焦《あせ》ったのか、ホルバートは包みを落としそうになった。ちょうど|掌《てのひら》に収まるサイズだ。 「そうだったのかぁ。うちのばあさんは|鉛《なまり》の箱に入れてたみたいだけど、あれは|心霊術《しんれいじゅつ》とかオカルト|避《よ》けだから関係ないよな。俺はホントこういう|骨董《こっとう》品に|疎《うと》くて」  肉厚な手から包みを受け取った村田は、ずしりと重いそれを左手に|載《の》せて油紙を開いた。彼でさえ指が|震《ふる》える。 「これを、|何処《どこ》で?」 「ずーっと昔、俺の|祖父《じい》さんの父親……|曾祖父《そうそふ》が|執事《しつじ》を務めていた家の物なんだけど……それがどうも、ちょっと|曰《いわ》く付きの|代物《しろもの》らしくて」 「だろうね」  そこにあったのは金属の破片だった。一辺が十センチ程度の|歪《いびつ》な三角形で、熱と空気のせいで酸化し、黒ずんでいた。断面には|錆《さび》も|浮《う》いている。厚さこそ一センチに満たないが、重量はかなりあった。こんな重しをポケットに入れておいて、よくズボンが下がらなかったものだ。  表面を掌でそっと|撫《な》でると、|磨《す》り減って浅くなった|彫刻《ちょうこく》が動物を|描《えが》いたものだと|判《わか》った。殆ど読み取れないが、左半分には文字がびっしりと刻まれている。  送られてきた画像のとおりだ。  精細なデジタルカメラの写真を一目見ただけでピンときた。村田の、|或《ある》いは|遥《はる》か昔に|魂《たましい》の所有者だった者の|記憶《きおく》が確かならば、これは確かに箱の一部だ。厳密には『|凍土《とうど》の|劫火《こうか》』の|縁飾《ふちかざ》りの一部だ。もちろん造られた当初から存在した物ではない。一番初めは|無駄《むだ》な|装飾《そうしょく》は一切無かった。地球に運ばれてきた後、いずれかの時代の職人に手を加えられたのだろう。  どこで別れたんだ。  村田は|爪《つめ》の先で文字の|溝《みぞ》を|辿《たど》りながら|咳《つぶや》いた。  ヘイゼルの元にあった|頃《ころ》に、|衝撃《しょうげき》を受けて欠けたのだろうか。  金属片を|凝視《ぎょうし》したまま|黙《だま》り込む村田の代わりに、ロドリゲスがホルバートに|尋《たず》ねた。 「|曾《ひい》お祖父さんのお名前は?」 「ベンヌヴォート。ベンヌヴォート・ホルバート。ばあさんの名はダイアン・ホルバートだ。|結婚《けっこん》前はダイアン・グレイブスだった」 「グレイブス!? グレイブスって、あの」 「うん、ボストンじゃちょっと有名だよな」 「じゃあきみはグレイブス家の人間なのか!」 「待ってくれ。違う、全然違うって」  ゲイリー・ホルバートは毎日ライフルを|握《にぎ》っている手を、今日は否定のために振った。 「曾祖父さんはグレイブス家の執事だったんだけど、執事だってまあ妻子がいるよな。ホルバート家にも|息子《むすこ》が二人いて、下の息子のほうが俺の実の祖父だ。|祖父《じい》さんね、じーさん。これがちょっとこう、従軍中の写真見るといい男なんだ。金髪に青い目で軍服が似合う似合う」  何を想像しているのか、マシュー・オールセンが鼻の下を|伸《の》ばした。 「もちろん女の子が放っておかなかった。祖父さんも放っておかれなかった。|二股《ふたまた》どころか|三《み》つ|叉《また》だよ。ポセイドンが持ってるアレみたいな感じな。おかしいなあ、その遺伝子、四分の一くらいは俺にも残ってるはずなんだけど。だから|出征《しゅっせい》時も三人くらい|恋人《こいびと》がいて」 「その内の一人がダイアン・グレイブス?」 「違う違う、まだこの時点では|掠《かす》りもしねえ。それで祖父さんは三人の写真を持って戦場に行き……うっかりしてその内の二枚を無くした」 「わー、|薄情者《はくじょうもの》だなー」 「なのに祖父さんときたら、落とした写真が独り者の兵士の|慰《なぐさ》めになったかもしれないから、自分は善行を積んだって言い張るんだぜ?」  これだからモテる男の行いは許せないというのだ。同意とばかりに燃え|盛《さか》る骨付き肉がパチンと|弾《はじ》けた。今頃になって消防車が|駆《か》け付ける。|遅《おそ》い、肉が焼けるまで通報しなかったのではないかというほど遅い。 「仕方がないから祖父さんは、残った一枚を大切にした。当時ロシアに居たらしいんだけど、ある日、敵軍の激しい|攻撃《こうげき》に|曝《さら》されて、進軍中に隊が|孤立《こりつ》したらしいんだ。それで|戦闘《せんとう》の|最中《さいちゅう》、小康状態になった時に、祖父さんと戦友は一本の|煙草《たばこ》を二人で代わり番こに吸いながら、ポケットから写真を取り出して……」 『俺、戦争が終わったらこの|娘《こ》と結婚するんだ』  やっちゃったー!  子孫だけがリアクションをとれずにいる中、三人は同時に額を押さえ、口々にお悔やみの言葉を述べた。 「気の毒にゲリ」 「お祖父さんもきっとその場の|雰囲気《ふんいき》で言っちゃったんだと思うよゲリ」 「でも今までの話だと、きみはこの世に存在してないよゲリ」 「死んでないぞ?」 「えーっ!?」 「死亡通知は届いちゃったけどな。誤報のお|陰《かげ》で戦死したと思われたから、いざ祖父さんが|還《かえ》ってきた時には、かつての恋人達はみんな|他《ほか》の男と結婚しちゃってたんだよ。そこに現れたのがハーバート[#作中トとドの両方あり一定しない]出のエリート弁護士と結婚してたダイアン|旧姓《きゅうせい》グレイブス。祖父さんは戦争終わってもそのまま軍隊に残ったから、制服姿に|惚《ほ》れちゃったんだろうなあ」 「その話、長くかかるー?」  まず飽きてきたのは村田だった。他人の祖父と祖母のロマンスなどに興味は無い。ホルバートはデブキャラに似合わぬ|饒舌《じょうぜつ》ぶりで、放っておけば第二章、父と母の出会い編、第三章、俺の脳内彼女編まで語りかねない。心苦しいが適当なところで|釘《くぎ》を|刺《さ》さないと危険だ。 「よし、要約する。祖父さん男前、ばあさん惚れた、でも人妻、結婚できない、駆け落ち。祖父さんの父親ベンヌヴォート・ホルバート、|主《あるじ》の家のお|嬢様《じょうさま》に|横恋慕《よこれんぼ》するとは何事かと責任感じてグレイブス家の執事を辞職。ボストンを|中途半端《ちゅうとはんぱ》に|離《はな》れて昔のフリーポート近辺に居着く。ほーら早い、早かっただろ? 本家じゃないったって金持ちのお嬢さんだから、当時はまずかったんだろうな、そういうのが」 「ヘーえ、あのダイアンがねー」  レジャンの記憶を引っ張りだし、村田は|密《ひそ》かに感心した。  一族で|唯一《ゆいいつ》のブロンドで、理想を絵に|描《か》いたような女性だった。牛追い|娘《むすめ》とジャングル探検隊スタイルだったエイプリルとは、正反対の|従姉妹《いとこ》だったのに。常に時間どおり現れる|許嫁《いいなずけ》がいるのだと、エイプリルが言っていた。あれは|自慢《じまん》だったのか|羨望《せんぼう》だったのか。 「執事の息子と駆け落ちかぁ。そんな風にはとても見えなかったのに」 「健ちゃん」  小児科医がフレームの向こうで|眉《まゆ》を|顰《ひそ》めた。混同するなと忠告しているのだ。 「その孫の俺がハーバード通ったんだから、人生ってわかんねーもんだよな!」  |隣《となり》ではマシュー・オールセンが、ゴッグって|凄《すご》い|奴《やつ》だったんだなと|素直《すなお》に感心している。しかし|一般《いっぱん》的に見れば、軍人の孫が|超《ちょう》エリー卜大学に進学したことよりも、世界有数の超難関校を卒業しておきながら、|某社《ぼうしゃ》のパクリみたいな名前の会社で狙撃クラスの講師をしていることのほうが|余程驚《よほどおどろ》きだ。  渋谷勝利も|羨《うらや》む進学先だというのに、まったく人生とは予測のつかないものである。 「じゃあダイアンが、|嫁入《よめい》り先でこの金属片を守って……保管していてくれたんだね。でも彼女は何処でこれを手に入れたんだろう。まさか嫁入り道具代わりに持ち出したわけでもないだろうに」 「あー、電話で言っただろ? それはばあさんのじゃなくて、曾祖父さんの遺品だ」 「執事だった?」 「うん、なんかグレイブス家の何代目かのこ当主が、火事で|亡《な》くなったんだってな。曾祖父さんより年上だったらしいけど」  ヘイゼル・グレイブスのことだ。 「それで曾祖父さんが後片付けに入ったんだとさ。ご当主の孫娘のお嬢さんが、自分が遺品を整理するってきかなかったんだけど、なにせ焼死なんて|惨《むご》い理由でお祖母さんを亡くしたばかりだ。もしそれで焼け|跡《あと》に入って遺体の一部でも見つけた日には大変なことになる。|可愛《かわい》いお嬢さんにそんなことさせられないって、執事としてこっそり事前に片付けたらしいんだ。そこで、それを」  ホルバート・ヤングは村田の手の中にある金属片を|顎《あご》で示した。 「けど曾祖父さんは、ご当主が亡くなる前に聞いてたんだよ。この金属が|嵌《はま》ってた何かについて。なんだろう、|盾《たて》とか鏡の一部かい?」  もちろん三人とも答えようとしない。一人は知らないし、二人は知っていながら口を|噤《つぐ》んでいる。訳知り顔の人間が増えれば増えるほど、事は|厄介《やっかい》になってゆくものだ。 「まあいいや。とにかく|曾祖父《ひいじい》さんは、数え切れない程の貴重品を所蔵するご当主にチラッと聞いてたんだ……これは、人が|触《ふ》れてはならない|禁忌《きんき》の品だって。だから拾った。|慌《あわ》てて|隠《かく》した。可愛いお嬢さんを守らなきゃならないから。灰ばかりの焼け跡で唯一残ったこいつを、自分の所に|仕舞《しま》い込んだんだ」  ゲイリー・ホルバートは|如何《いか》にもアメリカ人らしい|身振《みぶ》りで、ひょいと|肩《かた》を|疎《すく》めてみせた。|曖昧《あいまい》だった肩と首のラインがますます肉に|埋《う》もれる。 「で、祖父さんと駆け落ちした件で負い目のあるばあさんは、曾祖父さんの遺言をがっつり守った。焼け跡から見付かったその|欠片《かけら》だけは、決してグレイブス家のお嬢さんに|渡《わた》してはならないって遺言をね。だって、可愛いエイプリルお嬢さんが、ご当主みたいな目に|遭《あ》ったら大変だろ?」  な、と同意を求められ、マシューが大きく|頷《うなず》いた。ロドリゲスも顎を半分下げかけている。 「そして俺にお|鉢《はち》が回ってきた。いいことゲルハルト、これは絶対にグレイブス家に|戻《もど》してはいけないのよ。わかったよおばあちゃん、じゃあ俺はどうすりゃいいの? そう|訊《き》くとばあさんは、おっそろしい形相で言ったもんさ。ずっと持ってなさい! セイラムの|魔女《まじょ》みたいな声で。俺は良い子の|笑顔《えがお》で、うんわかったー」  |巨漢《きょかん》の|披露《ひろう》する|老婆《ろうば》の物|真似《まね》に笑いながら、村田は無意識に金属片を|握《にぎ》り|締《し》めていた。  裏返して|確認《かくにん》したい。裏側に木片が|貼《は》り付いていたら最高だ。たとえ灰になっていても、量が残っていれば、|或《ある》いは……。 「でもちょっと|可哀想《かわいそう》な気もするねえ。ダイアンだってグレイブス家のお嬢さんなのに」 「そりゃ|違《ちが》う」  小児科医が|率直《そっちょく》な感想を|漏《も》らすと、ゲイリー・ホルバートは|遺憾《いかん》だとばかりに首を振った。顔も|腕《うで》も上気して真っ赤だ。この|薄寒《うすざむ》い気候にも|拘《かかわ》らず、額には|汗《あせ》まで|浮《う》かべている。 「曾祖父さんにとってダイアンは娘だ」  そう断言されて、部外者達は|黙《だま》った。家族の問題だ、彼等の心の中は他の|誰《だれ》にも理解できないし、|踏《ふ》み込むべき場所でもない。返せるとしたらこんな言葉だけだろう。  なるほど。 「けれど二年前にばあさんが祖父さんの元に|逝《い》ってしまって、俺は急に不安になり始めたんだ。多分、|葬式《そうしき》にグレイブス家の|皆様《みなさま》が参列してくれたからだと思うな。なんか凄いの居たんだ、ハイスクールのアイドルでチアリーダーで、世界的に超有名なレジャーパンダとか、自分で言う奴」  アビゲイル・グレイブスだ。ホルバートもまさかあの|錦鯉《にしきごい》が、とんでもニッポン通だとは知りもしないだろう。逆の立場からすればアビーだって、遠い|血縁《けつえん》にジャパニーズサブカルチャーマニアがいるとは思いもよらないだろう。血は水よりも|濃《こ》いとはまさにこのことかもしれない。  だがホルバートは明らかにアビゲイルを|恐《おそ》れていた。というよりもお近づきになりたくないと|尻込《しりご》みしていた。話してみれば意気投合するかもしれないのに。 「別に|親戚《しんせき》付き合いするつもりもなかったけど、あんな凄いのがいるんじゃ|尚更《なおさら》ゴメンだな。でも住所とか知られちゃった以上、あいつがいつ乗り込んでくるか|判《わか》らないじゃないか。アレ返せーってな。そうしたら俺、ばあさんとの約束を守り切れる自信ないし。その時思い出したんだ、なんとか供養ってシステムが日本になかったっけって」 「それで日本のサブカルチャーに|詳《くわ》しいヨナサン店長に話を持ち込んでくれたんだ。ありがとうゲリ、お陰で僕等はこれに|巡《めぐ》り合えた。お礼を言うよ。預かってもいいかな?」  返事を聞かずに村田は箱の欠片を上着のポケットに|滑《すべ》り込ませた。断られたらこのまま|逃走《とうそう》するつもりだ。 「でも取り|敢《あ》えずゲリ、きみは戦場で|恋人《こいびと》の写真を見せるのだけはやめといたほうがいいね」  村田の助言にホルバートは、ドーナツ|臭《くさ》い親指をぐっと|突《つ》き出した。 「俺は祖父さんと違ってモテないから、何ともないぜ!」 「さすがゴッグだー」  条件反射のようにマシュー&ロディーがうっとりした。  ホテルへと戻る車の中で、村田はぼんやりと日本の家のことを考えていた。  マンションのエントランスと集合ポスト、ベージュの内装のエレベーターと、隣家が飼っている小型犬。それから家族のことを考えた。自分達は親の代からしかあのマンションに住んでいないが、グレイブス家は事に|依《よ》ると入植者の時代からボストンに居を構えている。特に|由緒《ゆいしょ》のあるわけではないホルバート家だって、曾祖父の代からフリーポート近くで生活してきたのだ。 「一族とか、そういう意識がないのも頷けるよな」 「なに? どうしたの健ちゃん」 「何でもないよ、ゲイリー・ホルバートはなかなかナイスガイだったなーと思って」  隣に座った小児科医は|髪《かみ》を振り乱して、ゴッグかーと笑った。 「ブロンドでブルーアイ、超エリート大学出身で、ライフルの腕前はプロ級。話も|面白《おもしろ》い。あとは|身体《からだ》さえ|絞《しぼ》ってマッチョに変身すれば|完璧《かんぺき》なのに。お祖父さんほどモテないなんて言ってる場合じゃなくなるよ?」 「女の子はそんな単純じゃないと思うよー」  標準体型で|銃《じゅう》も|撃《う》てない若造にとっては、喜ぶべき真理なのか。村田は大きな|溜息《ためいき》を|吐《つ》いた。 「それにしても、人生って判らないものだな」 「なんだい、|藪《やぶ》から棒に」 「ダイアン・グレイブスのこと。当時の女学生としては完璧だったよ、理想の女性という|褒《ほ》め言葉は彼女のためにあるって感じだった。グレイブス家の人達も、エイプリルには|眉《まゆ》を|顰《ひそ》めたけど、ダイアンに関しては|微塵《みじん》も心配していなかった。完璧な相手と完璧な|結婚《けっこん》をして、非の打ち所のない人生を送るものだと信じて疑わなかった……と、レジャンの|記憶《きおく》ノートには書かれてたわけ」  ロドリゲスの視線に気付いて、そう加えた。 「なのに|執事《しつじ》の|息子《むすこ》と|不倫《ふりん》の挙げ句、|駆《か》け落ちって。ほんと、|二十《はたち》歳の|頃《ころ》の彼女からは想像もつかないよ。未来なんて自分自身ですら予測できないものだね」 「そうだよ、きみだって判らないよ、二十年後には|僻地《へきち》の|診療所《しんりょうじょ》で、住民の胸に|聴診器《ちょうしんき》当ててるかもしれない」 「僕が文系か理系かも知らないくせに」  運転していたオールセンが、不意にレンジローバーのスピードを落とした。だがすぐに戻したところをみると、特に故障ではなかったらしい。|鹿《しか》横断注意の標識でも確認したのだろうか。 「……ボブは知ってるのかな」 「ん? ボブもきみが理系かどうかまでは興味ないんじゃない?」 「違うよ、ダイアン・グレイブスの人生。彼女がベンヌヴォート・ホルバートの息子と結婚して……いや、そこまでは絶対知ってるよね。彼のことだから新しい執事くらい|斡旋《あっせん》してそうだ。でも箱の欠片は?」  不安に駆られて、村田はポケットの金属片をぎゅっと握り締めた。油紙が手の中で|敲《しわ》を作る。 「ホルバートさんとダイアンが『|凍土《とうど》の|劫火《ごうか》』の欠片を守り続けたって、ボブは知っているのかな」 「うーん」  また車がスピードを落とし、今度は明らかに|路肩《ろかた》に寄った。しかし今回もすぐに車線に戻る。マシューがしっかり目覚めているのを確認してから、ロドリゲスはもう一度|唸《うな》った。 「うぅーん……断言はできないけどー。でもね、いくら|魔王《まおう》だって、年寄りが|命懸《いのちが》けで隠し通そうとした秘密までは暴けないんじゃないかとオレは思うよ。たとえそれが|銃火《じゅうか》を浴びる|類《たぐい》の命懸けじゃなくてもね」 「お年寄りが命懸けで、か。文字どおり二人とも……もガッ!」  後ろからの|衝撃《しょうげき》に舌を|噛《か》みそうになった。寄り|掛《か》かっていた背中が|弾《はず》みで浮く。シートペルトが腹に食い込んだ。 「な、ナニッー!?」 「カミカゼでありますッ!」  神風と聞いて、日本史も得意な村田が反応した。 「えっ、フビライ・ハン!?」 「お願い健ちゃん、メキシコ人にも通じる言葉で|喋《しゃべ》ってー」  車内がパニックに|陥《おちい》っている間にも、ガツン、ゴスンと二回ほど衝撃があった。攻撃続行だ。 「後続車が|怪《あや》しい動きをしていたので、何度かやり過ごそうと試みたのでありますがッ、どうあっても|抜《ぬ》き去ろうとしないのでありますッ! どうやら|尾行《びこう》されていたようで」 「びびび尾行って、ナナナなんでー!?」 「自分にはとんと判りませんがっ、そいつが急に攻撃をしかけてきましたでありますッ」  対向車線に逃れるが、後ろの車はぴったりついてきては、衝突を繰り返す。村田は辛うじて振り返り、加害車を見た。ロドリゲスはシートベルトに苦しめられている。 「まさか、ぐえ、ボブの差し向けた、ぐえ、エージェント!? だとしても裏切りがばれるの早すぎるよー!」 「違う、いくらボブでもお年寄りを|刺客《しかく》に使ったりしない」  ぶつけてきているのは赤のプリマス、運転席に居るのは、|驚愕《きょうがく》に両目を見開いた老婦人だった。|白髪《しらが》頭を全部立てて、ハンドルにしがみついている。どうやら故意に攻撃しているわけではなさそうだ。 「くそっ、ブレーキきいてないんだ!」  おばあちゃんと赤い車。言葉にすると絵本のタイトルみたいで|微笑《ほほえ》ましいが、実際は真ん中に 「|地獄《じごく》の」か「悪夢の」が入る。当てられるほうは|堪《たま》ったものではない。  |一際《ひときわ》大きな衝撃があって、レンジローバーは|轟音《ごうおん》と共に道路を突っ切り、路肩に乗り上げた。|疎《まば》らに設置されたガードレールに止められて、辛うじて路上に残る。後ろから来たプリマスは、ギブアップしたレンジローバーの|尻《しり》をしつこく|攻《せ》め、バゲッジシートを|潰《つぶ》してから路肩を|越《こ》えた。運の悪いことにプリマスの鼻先にはガードレールがなかった。  おばあちゃんの赤い車は、五メートルほどの急な|斜面《しゃめん》を鼻から落ちた。  車を飛び出した彼等が見守る前で、運転席のドアが開き、ドライバーがよろめきながら出てきた。額から血を流してはいるが、どうにか自力で立っている。大事ないようだ。  ロドリゲスとオールセンが手を|伸《の》ばし、老婦人の|腕《うで》を|掴《つか》んで引き上げようとしたが、彼女は|何故《なぜ》か首を|捻《ひね》り|抵抗《ていこう》して、|崖《がけ》を登ってこようとしない。興奮のあまり裏返った声で何事か|叫《さけ》んでいる。 「助けて、助けて!」 「だから手を貸してるのにー。早く登って奥さん。|漏《も》れたオイルで滑るのかな?」  燃料タンクを破損したのか、プリマスからしみ出る液体は真下の草を黒く染めていた。革のシートが|焦《こ》げる|匂《にお》いが届くと、老婦人はますます声を高くした。 「孫がいるの!」 「えっ!?」  マシューの|携帯《けいたい》電話は車内で、ロドリゲスの黄色くてコンパクトな二つ折りケータイは、衝撃でパッキリいっていた。周囲には他に通り掛かる車もない。  迷っている|暇《ひま》はなかった。  村田は斜面を|滑《すべ》り降りた。車に駆け寄り取っ手を引っ張るが、後部座席のドアはびくともしない。ロックされているのだ。 「健ちゃん窓破って、窓!」 「破れったって、何で!?」  周りを見回しても草ばかりで、パイプや角材はおろか石も転がっていない。|素手《すで》で強化|硝子《ガラス》は割れないだろう。道具がない、どうすれば……。  座席には幼い女の子の姿があった。チャイルドシートに身体を固定されたままで、今にも泣きだしそうに真っ赤な顔を|歪《ゆが》めている。何が起きたのかは判っていないが、ただ|怖《こわ》がって、|怯《おび》えていた。茶色い|瞳《ひとみ》が村田を見付け、彼女は小さい手を伸ばした。硝子越しに。  道具なら、あるじゃないか。  上着のポケットがずしりと重くなった。  道具ならある。 「目を閉じて!」  彼は受け取ったばかりの金属片を油紙ごと|彼は受け取ったばかりの金属片を油紙ごと|握《にぎ》り|締《し》め、その|尖端《せんたん》を窓硝子に|叩《たた》き付ける。一発目で|鈍《にぶ》い音がして|蜘蛛《くも》の巣状の|罅《ひび》が広がり、二発目で厚い硝子が粉々になって四散した。 「さあおいで、もう|大丈夫《だいじょうぶ》」  軽い|身体《からだ》をシートから|抱《かか》え上げ、斜面まで走る。三、四歩登った辺りでロドリゲスに手が届き、泣きじゃくる女の子を|渡《わた》す。ほっと息を|吐《つ》いて、ようやく自分がやけに身軽なのに気が付いた。上着が軽い。ポケットの中は空だ。|焦《あせ》って|振《ふ》り向くと、プリマスの|拉《ひしゃ》げたバンパー近くに黒っぽい|塊《かたまり》があった。|濡《ぬ》れた草に|沈《しず》んであまりよく見えない。 「しまっ……」 「|駄目《だめ》だ健ちゃん、|戻《もど》っちゃ駄目だ!」  |踵《きびす》を返した村田の背中を、制止の声が追ってきた。  ホセ・ロドリゲスは|優秀《ゆうしゅう》な小児科医で、親切でとても善良な人だ。自分が幼く、まだ我が身に起こっている|奇妙《きみょう》な事態が|呑《の》み込めていなかった頃から親身になって世話をしてくれた人だ。生まれる前から守ってくれた人だ。  ジョゼはいつも正しい。  だが今回ばかりは従うわけにはいかなかった。  あれを失ったら、もう二度と彼を|捕《つか》まえられないかもしれない。  村田はもつれる|脚《あし》でプリマスの|傍《かたわ》らまで|駆《か》け寄り、半ば転ぶように箱の|欠片《かけら》に手を伸ばした。指が届く。不思議と温かい金属の三角形を掴む。落とさないように強く握る。  右の視界の|隅《すみ》で、|一瞬《いっしゅん》だけ何かが光る。  エンジンバルブの奥に、オレンジ色の小さな点が見えた。内部で発火しているのだ。 「健ちゃんっ!?」  どうやら僕はミスをしたようだ。  村田はレンズに簿が入るのを|甘受《かんじゅ》しながら、|自嘲《じちょう》気味に思った。  このままでは確実に|爆発《ばくはつ》に巻き込まれる。  でもこの場に彼がいたら、子供を助けない僕を|軽蔑《けいべつ》するだろう。まあ軽蔑まではしないかもしれないな、いい|奴《やつ》だから。でも失望はする、絶対に。  天と地が逆になり、さっきまで|普通《ふつう》だった草と木が、海中の植物みたいに|揺《ゆ》れた。世界が九十度折れて歪み、直線が|全《すべ》て曲線になった。  自分の周囲を取り囲んだ|炎《ほのお》が、|螺旋《らせん》を描いて高く燃え上がるのが見える。勢いの割に熱くはなかったが、|髪《かみ》や服が焦げる不快な匂いは感じた。さっきの骨付き肉を思い出し、|発作《ほっさ》的な笑いがこみあげてくる。  しかし村田が笑うより先に、熱気で呼吸ができなくなった。遠くでドクターが叫ぶのが聞こえる。  死なないことだけは判っていた。そうでなければこんなに冷静ではいられない。  欠片は炎と爆発の力を利用して、箱の元へ戻ろうとしている。|或《ある》いは灰か、金属の裏に残った|木屑《きくず》かもしれないが、長い時を共に過ごした箱を追って、異なる世界へ|跳《と》ぼうとしている。この衝撃に|耐《た》えれば、村田の肉体も共に運ばれるだろう。ヘイゼル・グレイブスは持ち|堪《こた》えた、この苦痛に耐えたのだ。  でも渋谷、次はちゃんと|一緒《いっしょ》に連れて行ってくれ。僕はこんな方法は願い下げだ。  すごくくるしい。      5  約束どおりコンラッドが戻ってきた時、おれは|疲《つか》れ果てて|眠《ねむ》り込む一歩手前だった。だから声をかけられるまで、近付いてきた足音にも気付かなかった。 「|寝《ね》ないでください」  |膝《ひざ》を抱えて下を向いたままだったから、|松明《たいまつ》の心温まる赤も見えない。ただ、真っ黒だった視界がほんの少し明るくなっただけだ。 「戻ってきました」 「あ……っ」  息は声にならなかった。目を閉じて|喉《のど》を押さえると、コンラッドはすぐに気付いてくれた。 「飲んで」  ちゃぶん、と水の音がする。携帯用の容器にたっぷり入っているのだろう。口に入れた|途端《とたん》に|噎《む》せて、半分以上を吐きだしてしまう。|卑《いや》しく一息に|呷《あお》ったために、|上手《うま》く飲み下せなかったのだ。 「しーっ、じっとして」  コンラッドは首の後ろに|左腕《ひだりうで》を差し入れて支えると、|水滴《すいてき》を指に|載《の》せ、まずおれの|唇《くちびる》を|湿《しめ》らせた。それから|僅《わず》かずっ水を|含《ふく》ませてくれる。|柔《やわ》らかい皮が|顎《あご》と口に当たった。ゆっくりと角度を変えると、あまり冷たくない水が喉に流れ込んできた。  |砂漠《さばく》の日差しの下を運ばれてきた水だ。  罐割れるかと思う|程《ほど》の|渇《かわ》きが治まると、おれは不意にある光景を思い出し、|可笑《おか》しくなって|忍《しの》び笑った。もう喉を動かしても痛まない。 「何です」 「そのやり方は、お兄ちゃん直伝なの?」 「直伝というと……」 「前にグウェンダルが、同じようにして子犬にミルクを飲ませてた」  |子猫《こねこ》だったかもしれないが。  まったく、コンラッドにかかるとおれも、いつまでも子供|扱《あつか》いだ。 「かもしれません……どれだけ飲んでいないんですか?」 「ずっとだよ、五日くらい」 「五日も!」 「でも平気だ、生き延びた」 「よかった」  |肩脾骨《けんこうこつ》の辺りで、「本当に」というくぐもった声がした。彼はおれの首筋に顔を|埋《う》め、長い腕を背中に回す。力のこもった指が、中央より下の背骨に|触《ふ》れた。 「あなたを失うかと思った」 「|大袈裟《おおげさ》だよコンラッド」  あまり強く|抱《だ》きつくので、ギュンターが乗り移ったのかと思った。けれどおれ自身にも|解《わか》っている。二人とも|此処《ここ》にいるからこそ大袈裟だと笑えるが、もう二度と会えない可能性もあった。その確率が限りなく上限に近くなった|瞬間《しゅんかん》が、確かにあったのだ。 「……具合が悪そうだ。|痩《や》せて」 「腹が減ってるからだよ。そりゃ絶食が続けばげっそりもするさ。あーあ、せっかく増量した筋肉が」 「たとえ朝の|謁見《えっけん》を忘れても、食事だけは忘れない人だったのに!」  それでも安心感からか、|冗談《じょうだん》を交えた会話ができるようになる。彼は腕を|離《はな》すと、すっと身体を起こした。動作が早い。  身体に当たる空気の流れがいつもより早く、勢いが良くて、おれは一瞬|戸惑《とまど》った。ここ数日間はそう運動能力のないサラレギーと、|疲弊《ひへい》しきった自分しかいなかったから、健康な人の動きに|皮膚《ひふ》感覚が慣れていなかったのだ。 「味にこだわりさえしなければ、|食糧《しょくりょう》も持って来ています。水を飲んだからって満足して寝ないでください。地上に出たら好きなだけ眠らせてあげますから」 「努力する……でもどうせ上では寝られないよ。また馬に乗るんだろ?」 「乗馬中に居眠りする方法はいくらでもありますよ」 「うん」  声の聞こえる位置から判断すると、今はちょうど真向かいに居る。地面に片膝をついて、こちらを|覗《のぞ》き込んでいるはずだ。 「話があると言いましたね」 「ああ」  おれは彼の視線から両目を|隠《かく》すように|俯《うつむ》いた。 「あいつ、箱を|狙《ねら》ってる」 「サラレギーが? また|面倒《めんどう》なことに……」 「そうなんだ、でもまだ箱だと気付いてはいないらしい。王族の|墳墓《ふんぼ》に何かがあって、母親と弟はその何かの力を得たんだと思ってる。自分も欲しがってるんだ、手に入れる気でいる。だから自分達が|赤《あか》ん|坊《ぼう》の|頃《ころ》に母親が通った道を|辿《たど》り、地下から直接先祖の墓に向かうつもりだった。ここなら二人に見付からずに済むからね。母親と弟の目を|掻《か》い|潜《くぐ》って、当時と全く同じことをしようとしてるんだ」 「母親というのは、あの?」 「そう、なんていったっけ、アラゾン? 名前のとおり勇ましい人だ。アマゾン? アマゾネス? 一文字|違《ちが》うけどね」 「俺達は弟のイェルシーには会ったけど、母親のアラゾンは後ろ姿さえ見ていませんね。兄弟の話だと重い病で、容態が思わしくないようだったが」  コンラッドは小さく|唸《うな》った。右の|掌《てのひら》をおれの膝に|載《の》せる。 「|息子《むすこ》の立場からしても、あまり善人とは言えない国主なのかな」 「でもおれが見た夢は、サラレギーの言い分とはかなり違ってた……夢は夢だと言われちゃえばそれまでなんだけど」 「とにかく注意するに|越《こ》したことはない。箱が|絡《から》むと両シマロンは|厄介《やっかい》だ。早めにぼろを出してくれて助かった。さあ陛下、ヘイゼルたちをあまり待たせても気の毒だ。立てますか?」  |頬《ほお》に生まれたての風が当たって、手が差し出されたのだと判った。もうこれ以上隠しておくこともできずに、おれは重い口を開く。 「まだ終わってない」  喉はそれなりに|潤《うるお》ったはずなのに、声が|掠《かす》れた。この場から|逃《に》げたくなる。 「サラレギーに、聞いた?」 「いいえ」  コンラッドの口調が|堅《かた》くなる。きっと少し口元を引き|締《し》めて、僅かに目を細めているだろう。傷のある|眉《まゆ》を|輩《ひそ》めて、兄に似た|皺《しわ》を作っているかもしれない。 「俺はもう、あの男の言葉は聞きません。あれは毒です、どんなに耳に|心地《ここち》よくても」  おれもそう思うよ。 「……おれもそう思う。でもさっき言ってたのは事実だ。本当のことなんだ」  |逡巡《しゅんじゅん》し、自分にはとても言えないと何度も言葉を切る。でもおれ以外に|誰《だれ》が告げるのかと考えたら、たとえ|嫌《きら》われても|恨《うら》まれても言うしかない。血を|吐《は》く思いだった。  顔が上げられなかった。 「ヨザックを、失った」 「そうでしたか」  悪い|報《しら》せに動じることもなく、コンラッドは短く答える。|動揺《どうよう》したのはおれのほうだ。 「有事の際です、仕方がない」 「仕方がないって、それだけかよ!? おれのせいなんだぞ? おれがあのとき……」 「あなたのせいではありません」 「違う、おれのせいなんだよ! サラレギーを追って地下になんか入らなければ……ああ、違う……もっと速く走れていれば……きっと……」 「陛下、陛下!」  |肩《かた》を|掴《つか》まれる。掌はそのまま、|宥《なだ》めるようにおれの二の腕を|撫《な》でた。 「考えなくてもいいんです。その先は考えなくてもいい」 「考えるよ……あの時ああしておけばよかったって……そうしたらヨザックは、い……」 「陛下」 「生き、てっ、まだ|隣《となり》にいて……っ、いつもみたいにおれを、からかってた」  |膝《ひざ》に熱が広がったと思ったら、自分の落とした|涙《なみだ》だった。|恥《は》ずかしいとか男らしくないとか、そんな簡単な|見栄《みえ》では止められない。|堪《こら》えられなかった。  水なんか飲むんじゃなかった、|後悔《こうかい》したところで間に合わない。|渇《かわ》き切ったままだったら、涙だって|浮《う》かばなかったのに。|喉《のど》につかえた感情の|塊《かたまり》を無理やり|呑《の》み込む。 「ごめん、本当に済まない。あんたの親友を、大切な仲間を……おれが」 「俺が今何を言っても、|恐《おそ》らく陛下は受け入れようとしないでしょう。どう言ったところで、ご自分のせいだと責める。もう少し落ち着いてから、ゆっくり話したほうがいい」  コンラッドは元どおりの|柔《やわ》らかい口調に|戻《もど》っていた。おれは|抱《かか》えた膝に額を押し付け、背中を丸める。 「だって本当におれのせいだ! 目の前で仲間が死んだんだぞ!? おれがどんなに|悔《くや》しいか、あんたに|判《わか》るか」 「判らないとお思いですか」  彼の|乾《かわ》いた指が、首の後ろの、|髪《かみ》と|襟《えり》の間を撫でている。 「俺が何人殺したと思っていますか。俺が、グウェンダルが、ヨザックだってそうです。何人殺したと、死なせたと思いますか……数え切れない」  子供に昔話でも語るように、彼は遠い声で言った。|怒《いか》りも絶望も、激しい感情の|全《すべ》てを|排除《はいじょ》した話し方だ。 「とても数え切れません」 「でもそれは、敵だったんだろ? 戦争……だったんだから」 「敵だけじゃありません。味方だって、自分よりずっと若い、まだ少年のような新兵もたくさんいました。|皆《みな》、死んだ。俺のせいです」 「あんたのせいって……」 「俺の命令で戦い、進軍し、敗れて、ある時は勝って命を落とした。兵士の死は指揮者の責任です。無能な指揮官にかかれば、若い兵達は戦果も上げずに|全滅《ぜんめつ》する。|戦《いくさ》の勝敗は、軍を|統括《とうかつ》する司令官、|延《ひ》いては|民《たみ》の|長《おさ》たる王の責任です。俺達は何人死なせたか判らない。失わなくていい生命をどれだけ|無駄《むだ》にしたか、今となっては判りません。確かに俺のせいです。知っていて行かせた。生き延びられまいと知りつつ進みました。死ねと命じた分、あなたよりずっと罪が重い」  戦って死ねと言いました、とコンラッドは|呟《つぶや》いた。 「だから生きて戻った者は少なかった」  親指が|頸動脈《けいどうみゃく》に重なっている。でもサラレギーが触れたときとは明らかに違う。|恐怖《きょうふ》よりも|安堵《あんど》を感じた。話している相手は敵ではないと、見えなくてもきちんと教えてくれる。 「ギーゼラがよく言うんです……もっと助けられたんじゃないかと。もっと|迅速《じんそく》に、的確な|治療《ちりょう》をすれば、あと十人、いやあと一人でも多く救えたのではないかと悔しがるんです。けれど俺は彼女が|羨《うらや》ましい」 「どうして」 「俺は|誰《だれ》一人救わなかった」 「コンラッド、そんな」  彼はおれの頭を抱え込み、首と|顎《あご》の境目辺りに額を押し付けた。  血の流れを感じる。 「生きて|還《かえ》って……今はそれを恥ずべきことだなどとは思いませんが……生きて還ったからには、死んだ兵士の親や家族に報告しなければならない。そのときに、どう言えばいいのか|悩《なや》みました……本当に……どう告げれば良かったんだ……。こう言えますか? あなたの夫は、あるいはご子息は|勇敢《ゆうかん》に戦いましたが、私のせいで死にましたと。そう言えますか? 陛下ならどう|仰《おっしゃ》いますか」 「役目を果たし……」  短く息を吸った。 「役目を果たし……生命を、落としたと……」 「それで|充分《じゅうぶん》です。報せてくださってありがとう、感謝します」 「でもそんなのっ」  顔を上げると、地面に置かれた|灯《あか》りがぼんやりと|揺《ゆ》れていた。温かな|橙《だいだい》の塊は花にも見える。 「だめだよ、そんなに簡単に終われない!」 「終わらせなくてはなりません、陛下」  これ以上は王が|苛《いら》うことではないと、まるで彼の兄のような調子でコンラッドは言う。 「兵士を死なせるのは上に立つ者だが、誰のために生命をかけるかを決めるのは兵士だ。自らです。そうでなくてはならない」  それは愛する家族のためであったり、故郷の美しい村のためであったりする。時にはもっと形無いもの、自らの|名誉《めいよ》のために命をかける者もいる。 「グリエは誰のために自分を使うのかを決めたんです。彼の決断を認めてやってください」 「でも」 「お願いですから言うとおりにしてください。一人の兵士のために王がいつまでも悔やんでいては、民に示しがつきません。もっともご自分の胸の内でなら、いくら|嘆《なげ》いても結構ですが」 「それは……王様だから、独りで|耐《た》えなきゃいけないってことか……?」 「ユーリ、そうは言ってない」  コンラッドはおれの手首を掴み、|吊《つ》り上げるように立たせた。 「俺の胸でなら、いくら泣いてもかまわないと」  言われた言葉そのままに従うのは悔しかった。だからおれは思い切り泣いてやった。太陽の|匂《にお》いのする彼の背中で。      6  最後の秘密を知られたのは、地上に|繋《つな》がる穴の真下に来た時だった。  それまではどうにか気付かれずに済んでいたのだ。通路を進む間はコンラッドの服を掴んでいればいいし、何度も|蹟《つまず》いたところで、五日間の絶食で足取りも|覚束《おぼつか》ないと言えばよかった。同情されて、|抱《だ》いて運ぶと言われるのには閉口したが、それだってこれ以上筋肉落としたくないと言い張れば、コンラッドも|渋々《しぶしぶ》折れてくれた。  旅が終わるまで|隠《かく》しおおせるとは思っていなかったものの、予想外に早かったのは事実だ。おれとしては馬に乗る|瞬間《しゅんかん》、|鐙《あぶみ》を|踏《ふ》み|損《そこ》ねて砂地に|転倒《てんとう》! という、|大爆笑《だいばくしょう》な光景を予測していたのだ。  まだ昼を過ぎたばかりの日差しは明るく、穴の底までを|煙《こうこう》々と照らしていた。あまりの|眩《まぶ》しさに、|影《かげ》など何も見えない。ただ真っ白だ。  |遥《はる》か上からは、ヘイゼル・グレイブスの|威勢《いせい》の良い声が聞こえる。 「用件はもう済ませたのかい? だったらとっとと一人で[#「一人で」に傍点]上がっておいで。あたしの|生《お》い立ちが全編語れるくらい早かったじゃないか!」 「今度聞かせてくれ!」  やっと出せるようになった大声で答える。この光の|洪水《こうずい》のどこかに、地上から垂らされたロープがあるはずなのだが、こう|目映《まばゆ》いばかりだと探しようがない。まるで白い|闇《やみ》だ。 「よーし登るぞー、よしよし登るぞー……うーん、自力で登れるかな」 「そんな無理はさせませんよ。俺に|掴《つか》まって。ロープで固定するから。ユーリ、手を……」  そこでやってしまった。  久々の陽光が眩しくて、影を|確認《かくにん》できなかったのもある。|更《さら》に日差しが温かくて、体温や気配で立っている位置を|把握《はあく》できなかったのもある。その上、ドーム状になった場所なので音が|反響《はんきょう》して、声で相手の居場所を掴めなかったのもある。  あらゆる要素がおれに不利に働いて、まったく別の方向に手を|伸《の》ばしてしまったのだ。 「こっちです、陛下」 「あ、そっちね」  二回目も失敗した。 「待ってください、まさか……」  もうこれ以上は隠せないだろう。おれは観念し、左手で両目を|覆《おお》った。痛い|程《ほど》の白から解放されて、視界にやっと|柔《やわ》らかい影が下りる。 「見えてない。もう二日以上|経《た》ってる、と思う。正確にはいつからか判らないんだ」 「見えていない?」 「そうなんだ、こう、光の色がぼんやりとしか」 「……暗いからじゃ……なかったんですか?」 「おれもそう思いたかったんだけど」  |触《さわ》れば|症状《しょうじょう》が|診断《しんだん》できるとでもいうのか、コンラッドはおれの|頬《ほお》を両手で包み、親指で目の近くを|撫《な》でた。おれが目を|瞑《つぶ》ると、柔らかい|瞼《まぶた》の上からそっと|瞳《ひとみ》を圧した。 「暗闇の中にずっといたせいで、光に瞳が慣れないのだと思ってました……本当に?」 「残念ながら本当だ。|松明《たいまつ》があっても、|天井《てんじょう》の穴から光が差し込んでてもあまり見えない。光と影で判断してるんだ。でもかなり慣れた。太陽の見つけ方を教えてくれた人がいたからね」  最後の部分を聞いていなかったのか、それには|言及《げんきゅう》せず、コンラッドは我が身に降り|掛《か》かった災難みたいに嘆いた。彼がこんな風に|狼狽《うろた》えるのは|珍《めずら》しい。 「なんてことだ! どうして早く言ってくれないんですか」 「優先順位だよ」 「順位だなんて、|悠長《ゆうちょう》な」  でも本当だ。人間には、口にしてみて初めて確認できる感情がある。この場合もそうだった。コンラッドに告げたことで改めて、自分の中の|想《おも》いに気付いた。  こんなの大したことじゃないといえば、|嘘《うそ》か強がりになる。けれど「痛さを数値にすると十段階でどれくらい?」と同じように考えれば、おれの視力の問題は十段階で六か七。|他《ほか》の二つの|懸案事項《けんあんじこう》に比べたら、少し低い。  だからこそ隠そうとしたのだ。 「重要性で言ったら三番目だったんだ。サラレギーの件は箱に|関《かか》わってくるから、とにかく用心しなきゃならないし、ヨザックのことも……大切だけど、|辛《つら》くてつい後にしちゃって。でもおれの目が見えなく……悪くなったのは、おれだけの問題だ。そのせいで世界が危機に|瀕《ひん》したり、|誰《だれ》かが命を落とすような|悲惨《ひさん》なことにはならないよ。だから気付かれるまでばらさなくてもいいやと思ったんだけど、やっぱ無理だったか」  自分の口元に照れ笑いが|浮《う》かぶのを|抑《おさ》えられない。 「余計な心配させたくなかったんだけどなあ」 「……それが俺の仕事だと言ったのに」  話しているうちに、光の中に立つのに慣れてきた。  眩しすぎた白はほんの少量の黄を落とした、ミルク色に変化する。 「そんなに悲しい顔しないでくれよ。あんたがどんな顔してるか、見えなくても判る。誰のせいでもないし、これこそおれ自身の問題なんだから」  天を|仰《あお》げば、夢の中で教えてもらった空が見える。  向き合えば、相手がそこに居るのが判る。 「それによく考えたらこれって、完全に見えないわけじゃないんだよな。地下にいるときはおれも|動揺《どうよう》してたし、暗くて何も見えなかったからパニックになってたけど、光と影はぼんやり区別できるんだから……急に|凄《すご》く視力が悪くなったって言うべき?」 「光と影……どういう具合に見えるんですか」 「うん、たとえば空はギリギリ白に近い水色に見えるな。その中に一番真っ白な円があったらそれが太陽だ。コンラッドの姿は」  |髪《かみ》に手を伸ばした。茶色とまでは区別できないけれど。 「日が|翳《かげ》るから、少しだけ|薄《うす》い灰色になる。海辺の砂に足で|描《か》いたような、適当な人型だ。気を悪くしたらごめんな?」  思わず自分で|噴《ふ》きだしてしまい、|慌《あわ》てて謝罪した。足で描いたと言われて|嬉《うれ》しい者はいなかろう。 「人に見えるだけましです」 「安心しろ、|猫《ねこ》耳とかはついてないよ。あっちの通路にいた時は、光も影もないから全く見えなかった。でも今は|違《ちが》う。目の前に何かがあれば判るし、そこにコンラッドがいるって判るんだ。ほんとに太陽って|偉大《いだい》だなあ!」  両手を天に向かって|突《つ》き上げた。全身で日の光を浴びる。身に|纏《まと》わりついた五日間の|煤《すす》を|振《ふ》り|払《はら》うように。 「お日様のお|陰《かげ》で、ミルクの中に居るみたいだ。真っ暗闇が白い闇に変わった」 「白い闇……」  不親切な表現だったのか、コンラッドはしばらく|不親切な表現だったのか、コンラッドはしばらく|黙《だま》り込んだ。それから|控《ひか》えめに|訊《き》いてくる。 「しかし|何故《なぜ》そんな状態に。眼球か視神経を傷付けたりは? 例えば目に虫が入ったとか、土か石が当たったとか」 「うーん。それが、思い当たる節がないんだ。けど|寝穢《いぎたな》いおれのことだから、|眠《ねむ》ってる間に転がって頭でも打ったのかも……同じだけの|衝撃《しょうげき》を|与《あた》えれば|戻《もど》るとか」 「それは|記憶喪失《きおくそうしつ》でしょう」 「それか人格交代ね。それもまた別か」  薄灰色の人型が|僅《わず》かに上下した。彼は|肩《かた》を|疎《すく》め、深刻ではない|溜息《ためいき》を|漏《も》らした。 「|大丈夫《だいじょうぶ》、大丈夫です。俺があなたの……」 「ストップ」  おっと。言い終わらせずにおれは彼の顔の辺りに|掌《てのひら》を当てる。例によって全身が|痒《かゆ》くなりそうな格好いい|台詞《せりふ》を、|爽《さわ》やかに言おうとしていたのだろうが。 「それは無しだ、コンラッド。あんたの目はあんたのものだし、おれの目はこの二つ……今のところ。ちゃんとついてるだろ?」 「ええ。俺の好きな黒です」 「そう、それで|充分《じゅうぶん》。ところで上の連中|随分《ずいぶん》待たせてるよな。ヘイゼル相当お|冠《かんむり》なんじゃないの?」  タイミングよく穴から誰かが顔を|覗《のぞ》かせた。光源に近い分、|影《かげ》の色が|濃《こ》い。 「早く、登る、一人?」 「あれ」  記憶にある声が、繰り返す。 「一人、一人で?」 「この声はアチラさんだよな。通訳連れてきてくれたのか? そりゃ助かる、ジェイソンとフレディ救出に行くのに、意思の|疎通《そつう》が可能な人数は多いほどいいもんな……コンラッド?」  |隣《となり》の空気が変わった気がして、おれは思わず小声になった。 「どうかしたのか?」 「しっ、陛下、ちょっと戻って。どうも|妙《みょう》だ、何故アチラが声を掛ける必要があるんだ……しかも一人で登ってこいと言いましたね」  コンラッドはおれを再び陰に引っ張り込み、上から見えないようにしゃがませた。そういえば先程ヘイゼルも言っていた気がする。 『とっとと一人で上がっておいで』 「ヘイゼルもアチラも、俺達が二人なのを知っているはずです。|敢《あ》えて一人と強調したのには何らかの意味があるはず」 「サラレギーがまた、なんかやらかしたとか」 「それは無理でしょう、厳重に|縛《しば》っておきましたから」 「でも小シマロン王|捜索《そうさく》隊という名の|援軍《えんぐん》が彼を発見したら……」 「そう簡単には見付かりませんよ」  そのしれっとした言い方だけで、おれは|悟《さと》ってしまった。|詰《つ》めたんだ……サラを|袋《ふくろ》に詰めたんだねコンラッド。しかし「暗黒サラレギーと|愉快《ゆかい》な地下道探検ツアー」を|満喫《まんきつ》した後では、とても彼の肩を持つ気にはなれない。しばらく詰まっているがいい。 「どうも変だ、先に行って様子をみます。陛下はここでじっとしていてください。いいですね、絶対に上から見える位置には来ないで」  |一拍《いっぱく》考えてから、彼は付け足した。 「もちろん勝手に登って来ようなんて|恐《おそ》ろしい考えは起こさないでください。視力が回復するまでは無茶はしないと約束して。ベランダやキッチンも出入り禁止」 「|了解《りょうかい》……って、段々母親みたいになってきたぞ」  色素の薄いサーモグラフィーみたいな視力のおれが、異変の起きつつあるパーティーのただ中に飛び込んだところで、役に立つどころか足を引っ張るのが落ちだ。大人しく待っていよう。ここにしゃがんで、見付からないように身を|屈《かが》めて待っていよう。  しかしおれが陰からそっと見守る地上では、|荒《あら》っぽい|怒声《どせい》やどう聞いても|威嚇《いかく》でしかない決まり文句が飛び|交《か》っている。こういった言葉は万国共通、|雰囲気《ふんいき》だけで理解できるものなのだ。  後で聞いた話では、その時の地上の様子はこうだ。  コンラッドがロープをよじ登り穴から顔を覗かせると、そこにはホールドアップ状態のヘイゼルたちと口を閉じた袋、|更《さら》にその外周三六〇度を取り囲むようにして、馬に|跨《またが》り、飛び道具を構えた男達がいたらしい。  |襲撃《しゅうげき》者は王族の|墳墓《ふんぼ》付近で|覇権《はけん》を争い、|抗争《こうそう》を続けている|騎馬《きば》民族だった。|砂漠《さばく》の砂に|紛《まぎ》れる黄灰色のマントと、表情も読めないほど|目深《まぶか》に|被《かぶ》った同色のフード。ボウガンに似た仕組みの飛び道具を|顎《あご》の高さで構え、十人がヘイゼルたちに、残る十人がコンラッドに|狙《ねら》いを定めていたとか。  コンラッドは穴に|隠《かく》れるプレーリードッグよろしく、すぐに頭を引っ込めようとしたのだが、ヘイゼルとアチラに向けられたボウガン|擬《もど》きが発射寸前だったので、|咄嵯《とっさ》に作戦Bに|変更《へんこう》したという。  作戦B、|兎《うさぎ》と見せかけて|噛《か》め。つまり、従う振りをしてチャンスを|窺《うかが》う。  彼は無|抵抗《ていこう》の意思を示して穴から出て、|捕虜《ほりょ》の群れに加わった。  そんなこととは|露《つゆ》ほども知らないおれは、登ってきても大丈夫と声を|掛《か》けられるのを良い子で待っていた。ところが待てど暮らせど返事がないどころか、地上では|物騒《ぶっそう》な|響《ひび》きの言葉の|応酬《おうしゅう》が始まっている。  いくつかの聖砂国語の後に、コンラッドの声が答えた。 「それは俺のだ!」  アチラさんがすかさず通訳すると、また聖砂国語で訊かれる。今度は落ち着いた声で彼が答える。 「俺一人だ」  この会話だけではコンラッドが何を問い|質《ただ》されていたのかは断言できない。質問が「この|帽子《ぼうし》ドイツんだ?」「あなたは|結婚《けっこん》していますか?」だった可能性もある。だがしかし聖砂国語を使っている者の語調から推察するに、そうフレンドリーな内容ではなさそうだ。  連中は地下にも仲間がいるのではないかと疑っているのだ。  お疑いの気持ちもごもっともですが、下には戦力にもならないような、しがない男子高校生一人しかいません。  どうしよう。頭上の|遣《や》り取りを半分だけ|聴《き》きながら、おれは迷った。  男らしく姿を現すべきか、それともコンラッドに言われたとおりに、このまま陰でじっとしているか。おれが地上に行ったところで、事態が改善されるとはまったく思えない。しかし出て行かないことで仲間が責められ、最悪の結果になってしまったらどうする?  そんなことを|悶々《もんもん》と考えているうちに、現場の|状況《じょうきょう》は激しく変わってしまった。  音だけで推測すると、馬と人、どちらの数も急に増えたようだ。襲撃者の|同胞《どうほう》なのか、砂漠で草の根活動を続けるヘイゼルの仲間なのか、それとも第三の勢力が乱入し、よりいっそう混乱してきているのか。  悲鳴と怒声が|交互《こうご》に起こり、やがて混じり合う。何かが空気を切る|鋭《するど》い音、重い武器のぶつかり合う金属音、砂を|踏《ふ》み|締《し》める|蹄《ひづめ》の音。馬の|噺《いなな》き。|間違《まちが》いない、|先程《さきほど》までの雰囲気が|悠長《ゆうちょう》に思えてしまうほど、上は|苛烈《かれつ》な戦場へと姿を変えている。  |鈍《にぶ》い音と共に、目の前の地面に何かが降ってきた。聞いた限りでは重く|柔《やわ》らかそうだが、精神衛生のために、|確認《かくにん》するのはやあておいた。  けれどそいつが降ってきてくれたお陰でロープが|揺《ゆ》れ、地上に向かうには通らなければならない道が確認できた。その揺れるロープを伝って、人が降りてくる。 「コ……」  おれは口を押さえ、陽光の届かない場所へと一歩|後退《あとずさ》った。  宙にぶら下がっている影は|歪《ゆが》んだ三角形で、片手から細長い影が|伸《の》びていた。恐らく|抜《ぬ》き|身《み》の|剣《けん》だろう。風が|吹《ふ》きつけると|裾《すそ》が|靡《なび》く。あれは多分、全身を|覆《おお》うマントだ。  違う、コンラッドではない。彼はそんな服を着ていなかった。  隠れるべきだ。脳の命令に直ぐさま従ったつもりだったのだが、|一瞬《いつしゅん》|遅《おそ》かった。降りてきた男に見|咎《とが》められたらしい。足音は小石を踏んでこちらに近付いてくる。  視界が真っ暗になる、つまり地上の|灯《あか》りの薄くなる|闇《やみ》まで|逃《に》げて、おれは|岩壁《いわかべ》にもたれ掛かった。|両腕《りょううで》で自分の|身体《からだ》を|抱《だ》き締めながら|祈《いの》った。  |諦《あきら》めてくれ! 探そうとせず、ここから出て行ってくれ! 呼吸が浅く早くなり、背筋を冷たい|汗《あせ》が伝う。|鼓動《こどう》が|早鐘《はやがね》のようだった。  おれには武器もないし、視力も回復していない。こんな状態で敵に|襲《おそ》われたらろくに抵抗もできないだろう。もちろん|普段《ふだん》だって兵士には|敵《かな》わない。逃げ足が速いかそうでないかの違いだけだ。  だがおれの祈りも|虚《むな》しく、降りてきた男は闇の中まで踏み込んできた。最後の陽光が右手に下げた武器を|煌《きら》めかせた。  小さな星が一瞬だけ|浮《う》かんで消える。  相手は、息を|潜《ひそ》めるおれとの|距離《きょり》を|徐々《じょじょ》に詰めてきた。近くで呼吸の音が聞こえる。あと五歩、四歩、三……。 「……っ!」  残りの二歩を踏み|越《こ》えて、敵はいきなり|斬《き》り掛かってきた。一か八かで右に|倒《たお》した身体が、|乾《かわ》いて冷たい地面に転がる。おれの体温の残る岩壁に、重そうな武器がぶつかって火花を散らした。  |冗談《じょうだん》じゃない、殺す気か。おれを殺す気なのか!? 戦士でも武人でもない高校生を? |一介《いっかい》の兵士が、おれを傷付けようと……。  またあの感じだ。おれの|喉《のど》、おれの口が、同時に他人の肉体でもあるようなもどかしさ。 「……兵士|風情《ふぜい》が、我が身に傷を負わせようと……?」  二度目の|攻撃《こうげき》は空を切った。おれは身体を|捻《ひね》り、剣の起こす風までも|避《よ》けながら、半歩で襲撃者の背後に回った。|肘《ひじ》での一撃を背骨に|食《く》らわせる。半歩から一歩の近さにいれば、見えても見えなくても攻撃はできる。真芯に当たるかどうかの差だけだ。  条件は同じ、向こうだってろくに見えていない。だが敵は剣を使い慣れた兵士だ、熟練者なら暗闇でも相手の気配だけで戦えるだろう。|但《ただ》し、向こうには一つだけ弱点がある。  敵は|壁《かべ》の位置を知らない。  こちらは自分の手足しか|振《ふ》り回せる得物がないが、相手には立派な剣があった。|刃《は》は肉に当たれば|突《つ》き|刺《さ》し、切り|裂《さ》くが、岩に当たれば|衝撃《しょうげき》を伝え、持ち主にダメージを|与《あた》える。時には折れて転がり、役に立たなくなる。拾われて、敵方に|寝返《ねがえ》ることもある。  相手が下から|掬《すく》い上げた刃は、おれの右|脇《わき》を|掠《かす》めて岩に当たった。|鋼《はがね》とは思えぬ高い音を発して折れて、二つに分かれた。一つは|柄《つか》ごと敵の手の中、そしてもう一方、鋭い刃先は高速で回転し、おれの|爪先《つまさき》にぶつかって止まる。  どうして身体が、まったく学んだこともないような動きを自然に繰り出せるのか、何故咄嵯にそんな反撃法が思い浮かぶのか、おれ自身も不思議でならなかった。けれど脳で考えるよりも早く、おれの右足は折れた刃の|端《はし》を踏み、軽く浮かせて|靴《くつ》先で|蹴上《けあ》げた。  冷たい金属が手に届く。  自分の|掌《てのひら》まで気にしている|余裕《よゆう》はなかった。敵も同様だ。先の無い、折れたままの武器で斬り掛かってくる。おれも|剥《む》き出しの刃を左手で|握《にぎ》り、|素早《すばや》く横に|払《はら》った。  元は|一振《ひとふ》りの剣だった金属が、二人の男を同時に傷付ける。  |右肩《みぎかた》に熱い|刺激《しげき》が走ったが、左手には確かな|手応《てこた》えがあった。  相手の身体がぐらりと|傾《かたむ》く。鉄|錆《さび》の|匂《にお》いを|含《ふく》んだ空気が、おれの方へと押し寄せてきた。  けれどその中に、確かに覚えのある|香《かお》りを見付けておれは|困惑《こんわく》した。血だけではない。 「ヴォルフ……?」 「ユ」  腕の中に倒れ込んできた身体が、ゆっくりと曲がった。 「ヴォルフラム!?」 「……ユーリ」  |袖口《そでぐち》と掌が、生温かいものでべっとりと|濡《ぬ》れる。  ヴォルフラムの重さがおれの肩にずしりと掛かってきた。彼を抱いたまま、情けなく地面に|膝《ひざ》をついた。 「見えなかったんだ、本当に、知らなかったんだ!」 「ぼくもだ。違う声が、聞こえ……お前の、せいじゃ……ない」 「ヴォルフ!」  |誰《だれ》も彼も、おれのせいじゃないと言う。  でも本当は、すべておれの責任。 村田スペシャル開催宣言 「さて村田です」 「あれーっ!?」 「なんだい渋谷くん、すっとんきょんな声をあげて」 「どうしちゃったの村田、その九時のニュースみたいな|挨拶《あいさつ》は何!? どっか痛い? 病院行く? それにすっとんきょんって何だよすっとんきょんって。それを言うなら|素《す》っ|頓狂《とんきょう》だろ」 「いや、|須藤恭子《すどうきょうこ》ちゃんの略」 「……須藤恭子って、|誰《だれ》」 「それよりもだねえ渋谷。僕は今、非常に大変な状態なんだよ」 「え、地球でもそんなに大変なことが起こってんのか……何だろう、|今更《いまさら》感をまったく読まずにノストラダムス大復活とかかな」 「|眼鏡《めがね》にヒビが入りました」 「……|替《か》えればいいんじゃないスか?」 「またそう簡単に言うし。あのねー渋谷、何度も言ってるだろう? 眼鏡っこにとっては眼鏡は顔の一部なの。そして|雛人形《ひなにんぎょう》は顔が命、五月人形は顔が|猪木《いのき》なの。そう|度々《たびたび》替えるもんじゃないんだよ。シリーズごとにヒロインを替える男みたいな言い方しないでくれる?」 「|水戸《みと》黄門のことか! それはともかく、分かりやすい|嘘《うそ》つくなよ村田。お前、中学の時は|違《ちが》う眼鏡だったじゃん。もっとこう、フレームが目立つやつな」 「渋谷……」 「な、なんだよそのペリカンの求愛ダンスを見ちゃったような目付きは」 「意外と僕のことしっかり観察しててくれたんだね」 「は?」 「僕はまた、きみの服や持ち物が八割の確率で青系なのも、でも食べ物は色にこだわらないのも、見た目に反して細かくゴミを分別してるのも、美術は苦手だけど教科書の落書きは名人級なのも知ってるのは僕だけ、興味持ってるのは僕だけだと思ってたよ」 「……村田、まさか日記とかつけて……。い、いやーそんなことないぞ? おれだってちゃんと見てるからな。村田は百円よりも高いアイスを差し入れしてくれる率が高い、いいやつー! とか、|釣《つ》りもしないのにでっかいクーラーボックス持ってる、いいやつー! とか、おれの好きなスポーツドリンクの|銘柄《めいがら》を覚えてくれてる、いいやつー! とか、|誘《さそ》えばいつでも野球についてくる、いいやつー! とか色々と知ってるぞ?」 「何かが違う気がするけれども、まあいいか。とにかく、眼鏡にヒビは入るし、|眉毛《まゆげ》は|焦《こ》げるし、街はドーナツばっかだし、きみが帰ってこないお|陰《かげ》で散々な目に|遭《あ》ってるんだよ。これはもうアクシデントの宝石箱やー! ってくらい、トラブルだらけアクシデント続き。というわけでこの度、あまりの災難に|耐《た》えかねた僕は、上から下まで、頭からケツ……失礼、|尻《しり》まで、どこを切っても村田健、どっからどう見ても村田健、たとえ白っぽいものが出てもその裏に脈々と流れる熱き血潮の村田健、ムラケンによろしく、ムラタケンタービレ、村田健と11人の仲間、ブロークバック村田健、などなど村田スペシャルを|開催《かいさい》することにしました。キーワードは、ムラケンが鳴ったら外に出てはならないけど世紀末救世主伝説どんとこい村田健」 「|途中《とちゅう》から|阿部《あべ》ひ……いやいや! でも村田スペシャルって、なにそれ、新しいピザ?」 「わあ渋谷、おもしろーい。ピザじゃないよ、どっちかっていうとチョコレートかな」 「チョコレートかあ。いいなあ、甘いもの……ていうかさあ、おれだって大変なんですけど」 「きみの場合は|自業《じごう》|自得《じとく》」 「ちぇ。でも何事も|面白《おもしろ》がっちゃう性格のお前が、そんなに熱くなるの|珍《めずら》しくねえ?」 「そう? そうかもねー、僕も今回は少々ペース|崩《くず》され気味なんだ。あまり知られてないけど僕は|孤高《ここう》の国民的ヒーローだからさ、単独行動が多かったわけ。なのに今回は終始パートナーがいるんだよ。孤独じゃないのはいいけど、ちょっと調子|狂《くる》うよね。|隣《となり》に親切で気が|利《き》いて、子供っぽいとこもあるけど一応は大人な連れがいると、つい甘えちゃうし……渋谷? なにガックリきてるんだい?」 「……村田……おれのいない間に……彼女ができたんだな……」  あとがき  |不肖《ふしょう》喬林です。申し訳ありません。  やっ、ちゃっ、たー……。何をやっちゃったかと申しますと、えーと、こう、なんていうか……|風邪《かぜ》をこじらせました……よりによってこの時期に。|市販《しはん》の総合|感冒《かんぼう》薬飲んでおけば治るさーなんて甘く見ていたのが敗因でした。年明けからひいた風邪が全然治らないなあと思ってはいたのですが、|締《し》め|切《き》り間際になってついに気管支と内臓にまできてしまい、|皆様《みなさま》にご|迷惑《めいわく》をおかけしてしまいましたごめんなさいー。本編があんなところで切れているのも大問題ですが、なにせ|鎮痛剤《ちんつうざい》でラリった頭で前回から続く|鬱《うつ》展開を書いたものですから、読み直してみると「あああああ」な部分が山盛りです。あああああ次男が名付親というより|息子《むすこ》ベッタリなママみたいになってるよ! あああああ|皿《サラ》様やりすぎだよ! あああああ文章が|素《す》に|戻《もど》ってるよ! あああああギャグがないよ! あああー……もう……。しかしとにかくこの「箱マ」こと「箱はマのつく水の底!」を、問題山積みながらもどうにかGWにお届けできるのは、ひとえにお|力添《ちからぞ》えくださった皆様のお|陰《かげ》です。ありがとうテマリさん、ありがとう角川書店、そしてありがとうGEG! 水の底どころか一時は本当にどん底だったよ、ふぃー。どうにか家には帰れたものの、|未《いま》だに鎮痛剤でらりらりー。そして本編の内容に関してですが……鬱。視力の回復していない人の|一人称《いちにんしょう》は難しかった。|騙《だま》しだまし書いてはみたものの、どんどん暗くなっていくばかり。ラストに至っちゃアレですよ。でも次回までの|繋《つな》ぎ(というか自分への安定|剤《ざい》)としてこれだけは断言しておきます。この巻では、主要キャラ誰も死んでいませんから! ここは本当に強調。そうそう、事前に外伝である「お嬢様」と「息子マ」を読んでいただけますと、展開が少しは|和《やわ》らぐのではないかと思います。しかし鬱展開の割には、謎は色々と明らかになっているような気がします。村田スペシャルのお陰で。本当に水の底だったんだ……。村田スペシャルといえば「マ王陛下の花嫁は誰だ!?」は、相当昔、「今日マ」のドラマCDが出た時に、初回限定版にのみ|封入《ふうにゅう》されていた冊子に書いたものです。|既《すで》に完売(通常版はまだ流通しています)している上に、当時は本当にごく|僅《わず》かの方にしかお届けできなかったので、これを機に再録させていただきました。「今日マ」か……何もかも皆|懐《なつ》かしい……。六月には二月に開催されたマ王イベントのDVDが発売されるのですが、そのドラマ部分とちょっとリンクしているので、同時に楽しんでいただけたらと思います。  そういえば今現在書店にて発売されている真っ最中と思われる『月刊Asuka』六月号に、マ小冊子がついているそうですよ。私も|超《ちょう》短い文章を書いていますが、それとこの「マ王陛下の〜」は○○○|繋《つな》がり(片仮名三文字)です。|是非《ぜひ》、手にとって確かめてみてください。テマりさんのマンガも絶好調です。えとそれから、告知するものが|沢山《たくさん》あります。まずこのたび大々的に発表されている(はず)、文庫史上(多分)初!? の試み「なんかりろりろ余計なものがくっついた『マ王』」(GEG談)の外伝、「今日からマ王!? クマハチ☆すぺしゃる」です。……クマハチ☆すぺしゃるって何? それも何ですけど、私、初めて文章中に☆とか書いた気がしますよ。いやそれ以前に喬林、そのタイトルはマニメの……そう、インスパイアです。そして「りろりろ余計なもの」って何? というのは、|挟《はさ》み込みのチラシでご確認ください。うわー、これはかわいいやー……。ところで|何故《なぜ》喬林が「りろりろ」書いているのかというと、鎮痛剤でラリ……お申し込みお待ちしています!(06[#'06で左上に記号アリ]年7月13日〆切です)  そして皆様、もうご存じかもしれませんが、バンダイナムコゲームスからS2版ゲームが発売されます。これがまた、|凄《すご》いことになってますよ。どう凄いかといいますと、シナリオをざっと読ませていただきましたが、えーと、これ、こう……こうすると……? 血圧上昇。しかもマニメでもドラマCDでもお目にかかれなかったサラレギーが、友情出演どころか|普通《ふつう》に|喋《しゃべ》ってます。とにかくゲーム本体は赤面、血圧上昇、転げ回り必至の旅ですし、プレミアムBOXに入っているドラマCDが、ディープな笑いに慣れた私でさえ飲んでたビールを|吹《ふ》きだす|程《ほど》の|逸品《いっぴん》です。もちろん松本テマリさんと私、喬林も、最大級の協力をさせていただいております。どこにどう|関《かか》わっているかはまだ|内緒《ないしょ》ですが。特にテマリさんは、もう、テマリさんの|神髄《しんずい》を見たよという凄さです。私は、今は……これが……|精一杯《せいいっぱい》。|頑張《がんば》っています。  そうそう、飛行機恐怖症を|遂《つい》に|克服《こくふく》し、二月に|台湾《たいわん》へ行ってきました。台湾は色々な意味で熱かったです! 気候も暖かかったけど、読者の皆様も熱かった。意表をつく質問もいくつも出されて、内心ドキドキでした。ご|一緒《いっしょ》した大森|望《のぞみ》さんはすごく博識な方で、臨機応変に答えてらっしゃいました。感心というより|羨《うらや》ましい……。|駆《か》け|足《あし》|滞在《たいざい》でしたが、台湾の情熱と空気は|充分《じゅうぶん》に|堪能《たんのう》させていただきました。いずれどこかで|詳《くわ》しいことを書きたいとは思っていますが、まずは当日集まってくださった皆様、現地でお世話になった皆様に改めて感謝の気持ちを伝えたいと思います。本当にありがとうございました。今度は野球のシーズンに遊びに行きたいです。入国|審査《しんさ》で手間取った私にもう|怖《こわ》いものはないそ。  と、こう多方面の告知を並べてみましたが、|肝心《かんじん》の本編が今回もあまり進まなかったです。負け犬。おかしいなあ、|S《ショート》|S《ショート》や短編はほこっとネタが出てだだっと書けるのに、どうして本編になると頭を|抱《かか》えてしまうのだろう。負け犬。しかしようやく次回で聖砂国編に決着がつく予定です。本当なら勝ち犬。次こそ鬱展開を吹き飛ばすアクション|満載《まんさい》ギャグ増量(下ネタ|控《ひか》えめ)で行きたいと思います。実行できたら|土佐闘犬《とさとうけん》。だから、この「箱マ」では主要キャラ誰も死んでないから、次巻にもちゃんと出てきますからご安心ください。文章の合間を|可愛《かわい》いわんこで|埋《う》めてみたところで、どうにもならないぞ喬林。それではまた次回「砂はマのつく|路《みち》の先!(仮)」でお会いできたら|嬉《うれ》しいです。         喬林 知  あっと思った時にはもう|遅《おそ》かった。  血相変えて|駆《か》け下りてきたサラリーマンにぶつかられて、おれと|村田《むらた》は二人ともバランスを|崩《くず》し、二十五段はある階段を転げ落ちていた。  おれの名前は|渋谷《しぶや》有利《ゆーり》、|原宿《はらじゅく》で下車したことはない。  今日も県内|最寄《もよ》り駅の改札前で友人と待ち合わせていた。  二月十三日、土曜日、午後五時十七分。  時間厳守のおれにしては|珍《めずら》しく、もう二分も|遅《おく》れていたから、昨夜の雪で|滑《すべ》りやすくなっていた階段を一段|抜《ぬ》かしながら上っていた。  中二、中三とクラスが|一緒《いっしょ》だった村田|健《けん》は、やけに|可愛《かわい》いキャメルのダッフルコートと黒のマフラー姿だった。おれが改札前にいなかったからか、向こうも階段を下り始めている。  確か模試帰りだったはず。|左肩《ひだりかた》にバッグを|提《さ》げたまま、不安定に片手を|振《ふ》る。 「ストップ村田、危ないから。お前メガネが|曇《くも》ってっからさ」 「|違《ちが》うよ渋谷、逆、逆。寒いとこから暖かいとこに入ると曇るの、あとラーメン食うときとか……」  そこまで言ったあたりで|踊《おど》り|場《ぱ》に|辿《たど》り着いた。  おれは|手摺《てす》りに|掴《つか》まって|身体《からだ》を曲げ、冷たい空気を|懸命《けんめい》に吸い込んだ。 「や……悪い、遅れ……」 「別に遅れてないよ」 「でもほら、おれのほうから、本屋|廻《めぐ》りに付き合わせるんだしさっ、そういうときは、十五分前に来て、お|出迎《でむか》えだろっ」 「何いってんだか」  村田はレンズ|越《ご》しに|呆《あき》れた目をして、おれの背中を二回|叩《たた》く。フライトジャケットが|乾《かわ》いた音をたてた。 「野球に連れてくときはそんな奥ゆかしいこと、絶対に言いやしないくせに」 「野球は、お前も、楽しいだろ?」  でも友人の参考書選びに付き合わされるのは、そう楽しい時間でもないだろう。  おれたちはこの後、ちょっとどこかで身体を温めてから、駅近くの書店を完全|制覇《せいは》する予定だった。  ……中間考査での|不甲斐《ふがい》ない成績のお|陰《かげ》で。  不甲斐ない数字を残したのはもちろんおれだ。高校入学以降最悪の点数を|弾《はじ》き出した結果、目前に|迫《せま》った期末試験、しかもよりによって学年末考査の点数|次第《しだい》では、高校一年生をもう一度体験する可能性もある。  はっきり言ってしまうと、りゅりゅりゅ、留年!?  ううう、口にするのも|恐《おそ》ろしい。  けど、おれのほうにも言い分はある。この一年間は、学業に専念できる|環境《かんきょう》ではなかった。信じられない方法で異世界に飛ばされたし、いきなり|魔王《まおう》に就任したのだ。|遠征《えんせい》した先では|紛争《ふんそう》や|武闘会《ぶとうかい》があり、心の準備もないままに、大国の支配者と|渡《わた》り合ったりもした。  野球のことしか頭になかった高校生が、いきなり外交問題の|矢面《やおもて》に立たされたのだ。  しかも国の内外には問題が山積みで、戦争に向けて|突《つ》っ走ってる人々を、選挙権もない未成年が説得しなければならなかった。  とにかく、|弱冠《じゃっかん》十六歳の野球|小僧《こぞう》が、こんな|過酷《かこく》な一年間を送ってきたのだ。  勉強なんかしている|暇《ひま》はない。 『まあ僕は事情を知ってるから、そりゃそーかもねと|納得《なっとく》するけど』  留年の危機を告白すると、電話口で村田はそう言った。重要人物として|渦中《かちゅう》にいたにも|拘《かかわ》らず、彼の成績は安定していたけれど。 『でも親にはまだ話してないんだう?』 「何て? お父さんお母さん今までありがとうございました、おれは立派な王様になりましたって? 言えるわけねーじゃん?」 『それじゃ同情は引けないね』 「ひけないー。ていうか問題は親より兄貴なんだよー」  渋谷家の教育方針なのか、学校の成績に関して両親はさほどうるさくなかった。ところが兄ときたら親とは正反対で、小学生の|頃《ころ》から今日に至るまで、弟の成績に口を|挟《はさ》んできた。  母親よりも先にテストや成績表をチェックしては、前回より何点下がっただの、学年平均にも達していないだのと文句をつける。挙げ句の果てには「俺の|劣化《れっか》クローン」などと科学|倫理《りんり》に反することまで言って、弟であるおれの学力不足を非難し続けている。  この上留年などしようものなら、あいつにどんな目に|遭《あ》わされるか|判《わか》ったものではない。 「……絶対おれ、兄貴にコロサレル」 『そんな|馬鹿《ばか》な』 「でなかったら渋谷家の|恥《はじ》、|汚点《おてん》って|罵《ののし》られて、社会的に存在を|抹殺《まっさつ》される。自分の出世の|妨《さまた》げになるからって、どっかに島流しにされるかもしんない」 『島流しー?』 「島流しにされた先で和歌とか|詠《よ》んで、死んでから歌集が話題になっちゃうかもしんない」 『いいじゃん別に』 「よくねーよっ! そうなったら|孤島《ことう》に閉じ込められて、二度と球場に行けなくなっちゃうんだぞ!? |伊東《いとう》長期政権の行く末を見守ることも、球界完全制覇の|胴上《どうあ》げで|号泣《ごうきゅう》することもできないんだぞ!? それどころか下位でもいいからドラフトで指名されて……よそう……これは留年しなくても|叶《かな》わない夢だった……とにかく、留年するなんて兄貴に知られたら、お前にももう二度と会えなくなっちゃうし」 『僕は最後かよ。まあいいや、それでどの辺から復習し直すの? 数㈵が難しくなるのは二学期の半ばくらいかな』 「……春先からお願いします」  電話の向こうで数秒間|黙《だま》ってから、村田は『気付くの遅すぎるよー!』と|叫《さけ》んだ。  こうしておれは、親兄弟より先に友人の同情を買い、九回裏ツーアウトで逆転ヒットをかっ飛ばすために、手助けをしてもらえることになった。  この際もう逆転ホームランなんて言わない。ヒットでいい、ていうかむしろバントヒットか敵のエラーでもいい。とにかく留年だけを|避《さ》けられれば、|贅沢《ぜいたく》なことは申しませんとも。  土曜は|塾《じゅく》内模試だという村田に|頼《たの》み込み、待ち合わせ時間を五時十五分にした。大きい書店は駅周辺に固まっているから、改札で落ち合うのが一番効率的だと思ったのだ。  そう、おれたちは改札で会うべきだった。  階段ではなく。 「なんか食ってからにする? 一日頭脳労働してお|疲《つか》れだろ」 「んー別に。それより今夜、三ヵ月ぶりに父親が|香港《ホンコン》から帰国するんでさ……」  そこまで言った次の|瞬間《しゅんかん》に、おれと村田は駆け下りてきた男にタックルされていた。  スーツの上によくあるベージュのコートを着て、前ボタンを開きっぱなしにした男だ。合成皮革の|鞄《かばん》を|脇《わき》に挟み、ずれかけた|眼鏡《めがね》を片手で押さえている。よほど急ぐ用でもあったのか、走りながら手首の時間を確かめた。そのせいで正面にいた高校生二人に気付かなかったのだろう、スピードを|緩《ゆる》めることもなく|激突《げきとつ》したのだ。  あっと思ったときにはもう|遅《おそ》かった。  おれの|靴底《くつそこ》は踊り場の|滑《すべ》り止めを|越《こ》えて、両方とも宙に|浮《う》いていた。|衝撃《しょうげき》と一緒に村田の体重がかかって、銀色の手摺りから|腕《うで》が|離《はな》れた。掴み直そうと三本の指が|焦《あせ》る。 「……おっ……」  落ちる、と叫ぼうとしたが、息が|詰《つ》まって声が出なかった。  背中から激痛が|襲《おそ》ってくる。続いて痛みは|肩《かた》に、二の腕に、|腰《こし》に回った。少し間を置いて|脛《すね》にきた。全身のあらゆるところを打ちながら、おれと村田はもつれ合って階段を転がり落ちた。  ………え……ねえ……ねえ……。  |靄《もや》のかかった意識の中で、おれはぼんやりと考えていた。  これはあれだ、母親が大好きだった「ねえモーミン」ごっこだ。ねえねえ呼ばれて振り返ると、|頬《ほお》を人差し指で突かれる。やーだ、ゆーちゃんのほっぺぽよぽよーなどと喜ばれるのが、幼心にどこか|悔《くや》しかったのを覚えている。あれ、モーミンじゃなくてユーミンだったかな、それはまた別のごっこがあった気がする。 「ねえちょっと、きみたち|大丈夫《だいじょうぶ》?」  とにかく安易に|振《ふ》り返っては、大人げない母親を|嬉《うれ》しがらせるだけだ。ここはひとつ相手が|飽《あ》きるまで、|徹底《てってい》的に|寝《ね》たふりだ。  やがて呼びかけるのを|諦《あきら》めたのか、若い女性の心配そうな声がした。 「|駄目《だめ》みたい、気が付かない。|誰《だれ》か駅員さん呼んできて」 「救急車呼んだほうが早いんじゃない?」  救急車!?  そんな|大袈裟《おおげさ》な、救急車なんて呼ばれたら、おれは留年してしまいますよっ! と飛び起きようとして失敗した。背中と腰に激痛が走ったのだ。 「……う……いて、て」 「ああ、急に起きようとしても無理よ。階段半分転がり落ちたんだもの」 「……階……段?」  やっと意識が現実に|戻《もど》ってきた。そうだった、おれと村田健は、不注意なサラリーマソに体当たりを|喰《く》らって、|一緒《いっしょ》に駅の階段を落ちたのだ。 「そうだ、村田」  どこかのネジが緩んだのか、視界が|翳《かす》んではっきりしない。親切な女性二人の手を借りて、おれはようやく|身体《からだ》を起こした。 「お友達はまだ気を失ってるみたいよ。息もしてるし心臓も動いてるから、とりあえず大丈夫だとは思うんだけど」 「えーと、ご親切にありがとうございます……痛ェ……」 「あ、ごめんね、ここ痛かった?」  名前も知らない|香水《こうすい》の|匂《にお》いがして、こんなときにもかかわらず|鼓動《こどう》が早くなった。  待て待ておれ。今はとにかく村田の|怪我《けが》を確かめないと。なかなか視界がクリアにならなくて、おれは|苛《いら》ついて両目を|擦《こす》った。どうしちゃったんだ、頭でも打ったのか? 確かに目を開けているのに、ぼんやりとしか周囲が見えない。 「あ、眼鏡ね、眼鏡はここよ。じっとしてて、今かけてあげるから」  女の人に眼鏡をかけてもらうなんて、眼科|検診《けんしん》のとき以来だ。いや待てよ、おれは両方とも二・○だから、生まれて初めての体験じゃないか?  「すいません、何から何までありがとうございま……うわあ、おれっ! おれ大丈夫か!?」  |矯正《きょうせい》されて|曇《くも》りの晴れた視線の先には、おれが|仰向《あおむ》けに転がっていた。もう一人の若いお姉さんが、ミニスカートからのぞく|太股《ふともも》に頭部を|載《の》せてくれている。ほんのちょっとだけ|羨《うらやま》しいぞ。  おれはおれの身体に取りすがり、|震《ふる》える手でそっと|揺《ゆ》すってみた。 「なんかおれ大変なことになってますよねッ。おい、ちょっとおれ大丈夫なの? どこ打った? |利《き》き腕骨折とかしてねーだうな。で、あれ、えーっと村田はどこに……」  ん?  ちょっと待て、色々と冷静になれ、渋谷有利。  目の前にひっくり返ってるのは、確かに自分自身だった。十六年間鏡で見慣れた渋谷有利だ。バッティング練習時ばかりだったから、ユニフォーム姿しか|記憶《きおく》にないけれど。  だったら今、|昇天《しょうてん》中の渋谷有利を|揺《ゆ》さぶっているのは誰だ? 両手を結んで開いてみると、自分の命令どおりに身体は動く。 「……あれ?」  あれー?  そのとき、おれの下でおれの身体が低く|唸《うな》り、|瞼《まぶた》を数回ひくつかせてからゆっくりと目を開いた。 「……なんで……」  どう呼びかけていいものか迷っているうちに、渋谷有利の口から疑問が|漏《も》れる。 「なんで僕が……僕を……|覗《のぞ》き込んでるんだろ」  僕? おれの口から僕? ていうか僕って誰!? 「まさか村田!?」  まさかも|朝霞《あさか》も、村田だった。 「……し、信じられない。どうしてこんなことに」  やたらとハートの|飾《かざ》りが飛び|交《か》うマクドナルドで、おれは五十回目の|溜《た》め息をついた。テーブルの上には冷めかけたコーヒーのカップがあり、目の前には村田健が座っている。  渋谷有利の姿をした、村田健が。 「すごいな、よく見える。眼鏡もコンタクトもナシでこんなに見えるんだー。へええ|新鮮《しんせん》」 「感心してる場合かよー」  身体がおれで中身が村田の人間は、|嬉《うれ》しそうに周囲を見回している。なるほど、おれはああいう顔をしてたんだ。 「それに何だか身体も軽いよ」 「おれのほうはケツも腰も|酷《ひど》い痛みです。何度も同じとこを打ったみたいだ」 「それはあれだよ、きみのほうが反射神経と運動神経がいいから、無意識に受け身をとってたんだね。僕はもうなすがままに転がっちゃったから、そっちは全身|青痣《あおあざ》だらけなんだよ。保険証のある場所教えるからさ、明日一緒に病院……」 「れ……」  おれは木目のテーブルに|突《つ》っ|伏《ぷ》した。温かいキャメルのコート地が頬に当たる。 「冷静に言うなー! しかもおれの顔しておれの声で僕、僕って、なんかすげえ|違和《いわ》感! なんかおれが一気に|女々《めめ》しくなった感じがしてすごく|嫌《いや》だー! おれの身体なのにおれの声なのに。ホントはおれなのにーっ!」 「落ち着け渋谷、オレオレ|詐欺《さぎ》みたいな|眼《め》で見られてるぞ」  どういう視線だよと|慌《あわ》てて顔を上げるが、白い霞がかかって何も見えない。 「くそー、あっという間に|眼鏡《めがね》が曇ってやがるー」 「まあまあ、そう興奮するなって」  村田はおれの手でおれの、つまり村田の腕を|叩《たた》いた。|紛《まぎ》らわしい。非常に紛らわしい。 「あのなあ、これが落ち着いていられるかっての。おれたちどうなったか|判《わか》ってる? 入れ|替《か》わっちゃったんだぞ! おれの身体なのに中身は村田健で、お前の身体でお前の声なのに今|喋《しゃべ》ってるのはおれなんだぞ!?」 「|大丈夫《だいじょうぶ》大丈夫、きちんと理解してるよ。階段から落ちた衝撃で入れ替わっちゃうなんて、割とよくある話なんだから」 「よくある話ィ? あ」  やっと曇りの晴れた眼鏡|越《ご》しに、周囲の|好奇《こうき》の視線に気付く。おれは慌てて声を落とし、片手を口の横に当てた。 「なーに|呑気《のんき》なこと言ってんだよッ、こんな非科学的で非現実的なことが、そうそうあってたまるもんか」 「結構あるよ。ドラえもんでもあった気がするし、みかんとおかんも入れ替わりネタだった。|大林宣彦《おおばやしのぶひこ》も入れ替わってなかった? あれなんか性別|違《ちが》ったから、かなり大変だったよねー」  みかんとおかんだって、と自分の小ギャグにうけながら、村田は渋谷有利の顔で笑った。また発見、おれはこういう顔で笑うわけか。 「ドラえもんは便利な道具を使ってるんだから、科学的に説明できるだろ」  できるかな。できるだろう、きっと。 「でもおれたちは何の|根拠《こんきょ》も|前触《まえぶ》れもなく、ただ落ちただけで入れ替わっちゃったんだぞ? 第一、この先どうするんだよ? 外見は村田健ですが渋谷有利ですなんて言って、周りの|皆《みな》が信じてくれると思うか?」 「まあ無理だろうね。ああでも渋谷、いわゆる人格入れ替わりは、|殆《ほとん》どの場合短期的なものだから。長くても何週間か|我慢《がまん》すれば、多分元どおりに……」 「もし戻れなかったらどうするんだよ?」  おれは頭を|抱《かか》えた。指先に当たる|感触《かんしょく》で、村田がちょっとクセ毛なのを知った。 「この先ずっとこのままだったら。ああーすぐに試験があるんだよ、おれは進級かかってるんだぞ。お前の学校だってテストだよな……ん、待てよ、そうするとおれの試験は村田が受けることになるんだよな……その方が留年の危機は|避《さ》けられる気も……ああ駄目だ駄目だ、それじゃ身代わり受験だ、カンニングと同じくらいまずい不正だよ。確かにおれだけど、本当はおれじゃないもん」 「相変わらずお|堅《かた》いなあ渋谷は」  村田が冷めたコーヒーを飲んだ。カップの中身はクリームを入れすぎていて、黒というよりカフェオレ色だ。 「しかも逆にお前の学校の試験をおれが受けたら、そりゃもう|悲惨《ひさん》なことになるぞ。だって進学校だもんな、|普通《ふつう》に東大合格してるもんな……やばい。やばいやばい。赤点確実。成績表に|一桁《ひとけた》の点数が永遠に残……それどころじゃないそ、自分のせいで|秀才《しゅうさい》・村田健が留年なんてことになったら、村田家のご両親にも申し訳が立たない!」 「一、二学期の貯金があるから、一回くらいの赤点じゃ留年しないよ。それに何度も言うようだけど、大学受験は内申書関係ないから。もしも実際に進級できなくなっても、一年|浪人《ろうにん》したと思えばそれでいいじゃん。大丈夫、気にすることないよ。元に|戻《もど》ってからきっちり取り返すから。退学して大検受けたっていいんだし」 「村田……」  と言いながらおれは、渋谷有利の手をぎゅっと|握《にぎ》った。また発見、野球|小僧《こぞう》の指は握り心地が良くない。 「お前っていいやつだなあ」 「そりゃどうも」 「ところで村田って右投げ右打ち?」 「僕の|身体《からだ》はあんまり野球向きじゃないと思うなー」  とにかく、そう深刻に|捉《とら》えてばかりいても仕方がない。なるようにしかならないんだから、とりあえず今は落ち着いて様子を見よう。無理やりにでもそういう結論を出したら、|疲労《ひろう》感がどっと|襲《おそ》ってきた。考えてみれば村田の身体は模試帰りだ。寒さにかまけて一日だらだらしていた渋谷有利と比べて、|脳《のう》味噌《みそ》の|疲《つか》れ方も激しいだろう。  おれは自分だったら似合わないだろうダッフルコートのままで、|椅子《いす》に背中を押し付けた。 「うー|怠《だる》い。なんかものすごく疲れたよ」 「ま、そう|珍《めずら》しくないとはいえ、|充分《じゅうぶん》に|衝撃《しょうげき》的な出来事だもんね」 「うん……あー、ほっとしたら生理的欲求が。おれちょっとトイレ」 「あ、僕も」  カップや紙を捨ててから、荷物を抱えてトイレのドアを押す。そうしながらも当座をしのぐための情報|交換《こうかん》をしなければならない。まず今夜、悪くすれば明日の夜も、最悪の場合は何週間かを立場逆転で過ごさなければならないのだ。  おれが村田で村田がおれで……ああ|駄目《だめ》だ、どこかで聞いたフレーズになってきた。 「そういえば渋谷、犬の名前は何だっけ? パトラッシュ?」 「うちはフランダースかよ。はーしかし、冬はヤダねえ、あんまし寒いと外に出すのも|億劫《おっくう》になっちゃう……」  黄色い玉の転がる便器の前に並んで立ちながら、|暖房《だんぼう》でようやく温まった手でズボンのチャックを下ろ……そうとして気付いた。 「あっ!」 「な、なんだよ!? 急に変な声だすなよ渋谷っ、手元が|狂《くる》って|狙《ねら》いが外れちゃうだろ」 「待てよ村田、おれが今ここで小便をするためには、こ、この手でお前の、つまり村田健の|排泄《はいせつ》器官を、も、持たなきゃならないってことなんだよな? それも|一瞬《いっしゅん》のことではなく、用を足してる間中、他人のブツをだな、ずーっと|摘《つま》んでなきゃならないという。うわどうしよう、持ちたくない。激しく持ちたくない!」  おれは|隣《となり》を|覗《のぞ》き込んでまた|嘆《なげ》いた。村田がすでに実行中だったからだ。 「うわ、お前おれの……ぎゃー! 見るな! まじまじ見下ろして比べるなッ」 「あのね、何を子供みたいなこと言ってんだよ。|誰《だれ》だってトイレくらい行くんだから。|溜《た》めといたら身体に毒なんだから、この際しょうがないだろ?」 「だってお前、何の|抵抗《ていこう》もないの? それ、おれのなんだぞ? ううひゃー、そんなに|振《ふ》るな!」 「そっちこそ、合わせて身体|揺《ゆ》するのやめろ」  さっさと済ませてしまった友人相手に、おれだけが必死だ。|尿意《にょうい》は増すし、混乱するし。 「うう、おれ村田に握られた……」 「細かいこと気にしすぎ。どうせ指もきみのものじゃないか。ほら、さっさとしちゃいなよ。誰のとか深く考えない! なんだったら|介護《かいご》の練習だと思えばいいよ。お年寄りの手助け。心頭|滅却《めっきゃく》してエイって持っちゃえば、別になんてことないって」 「……そんなことで心頭滅却したくないです」 「じゃあ何だい、僕に手伝えっていうのー? それも|嫌《いや》なんだろ?」  村田は|呆《あき》れて頭を|掻《か》き、白いドアを指差した。 「個室でしてこい!」 「ええーっ!? 座ってすんのか!?」  心細いから|泊《と》まっていってーとか、今夜は帰したくないーとか、ホテル前のカップルかよという引き留めあいをしたのだが、村田健は渋谷家に泊まれなかった。つまり、身体は村田で中身はおれという合体人間が、自宅(村田家)に帰らなければならないということだ。 「父親が三ヵ月ぶりに帰国するんだよね、確か。明日の朝にはまたどこかに飛ぶらしいけど」  香港でIT関連の仕事をしているという|親父《おやじ》さんと、都内にウィークリーマンション借りて、毎晩事務所に|詰《つ》めっきりだという弁護士のお|袋《ふくろ》さんが、久々に家にいるのだとか。そういう事情ならさすがに今夜は家にいなければまずいだろう。親父さんにしたって久々の我が家だ、愛する一人|息子《むすこ》にも会いたいだろうし。  ということは、|普段《ふだん》は高校生にして独り暮らし状態だったのか。|過干渉《かかんしょう》気味の親兄弟を持つ身では、どんな生活なのか想像もつかない。うちとは一八○度|違《ちが》う家庭|環境《かんきょう》だ。  高層マンションの前に立って、おれは白く息を|吐《は》いた。  最低限の前知識は入れてきたとはいえ、いざとなるとやっぱり不安だ。初対面の大人二人を相手に、家族のふりをしなければならない。  村田(でも見た目は渋谷有利)は|一緒《いっしょ》に行こうかと言ってくれたが、せっかくの家族水入らずの晩に、第三者が割り込むのも|無粋《ぶすい》だろう。それに三ヵ月ぶりに会う親父さんが、目の前でおれのほうを息子|扱《あつか》いしたら、村田だって傷つくだろうし。いや肉体的には|間違《まちが》っていないんだから、事情を知らない親父さんとしては当然の行動なのだが……でも気持ちの問題としては、おれだったら|淋《さび》しく思う、ような気がする。 「……っだいまー……」  エントランスのオートロックをどうにかクリアして、教えられた番号のドアを引く。|鍵《かぎ》がかかっていた。まあそうだろう、最近は何かと|物騒《ぶっそう》だし。窓から灯りが|漏《も》れていたから、もう両親が帰宅しているのだと思って、おれはインターホンを押して待った。少々、いやかなり|緊張《きんちょう》しながら。 「いきなり今晩は、は変だよな。どーもとか|曖昧《あいまい》な|挨拶《あいさつ》もおかしいし」  ……いつまで|経《た》っても|玄関《げんかん》は開かなかった。  もう一度押してしばらく待ったが、やはり何の反応もない。  |自棄《やけ》になって十回連続で押した。やっと内側から鍵が開いた|頃《ころ》には、その場から|逃《に》げたくなっていた。ピンポンダッシュの犯人の気分だったのだ。 「なにしてるの」  顔を|覗《のぞ》かせた女の人は、疑問形でなくそう言った。おれは出鼻をくじかれて、|喉《のど》まできていた挨拶を|呑《の》み込んでしまった。 「あ、ドアが……」 「自分の鍵、持ってるでしょ」  コートのポケットには確かにキーリングがあった。  |余所《よそ》の家ってのはそういうもんなのかねと思いながら、おれは玄関で|靴《くつ》を|脱《ぬ》いだ。ただいまを言うタイミングは完全に|逃《のが》してしまった。  さっさと引っ込んでしまった村田の母親らしき女性は、予想どおりの|眼鏡《めがね》だった。短めの|髪《かみ》を軽い茶色に染めていて、家だというのにきっちりと|化粧《けしょう》をしている。ぱっと見た感じでは十年後の|高島礼子《たかしまれいこ》。うちのお袋とは正反対の、いかにも働く女性といったタイプだ。仕事相手として|渡《わた》り合うなら|手強《てごわ》そうだが、息子にはあまり感心がない様子。これなら|騙《だま》し通せるかもしれないと、おれは人知れず胸を|撫《な》で下ろす。  玄関左の高校生の部屋でコートを脱ぎ、洗面所で時間をかけて手を洗う。顔を上げると鏡に映った自分がいる。  村田健だ。  さあ、腹を決めろ村田、ていうかおれ。これから実の父親と、三ヵ月ぶりに感動の再会だぞ。  |覚悟《かくご》を決めてリビングに入ると、ソファーにワイシャツ姿のおじさんがいた。熱心に新聞を読んでいるので、|薄《うす》くなりかけた後頭部しか見えない。多分これが、いや「これ」なんて呼んではいけない、このサラリーマンさんが村田の父親だ。 「あの……」 「ああ」  親父さんは三センチくらい顔を上げて、最愛のはずの一人息子を見るが、それもほんの一瞬だけのことで、すぐに視線を新聞に|戻《もど》してしまった。グローバルな|企業《きぎょう》の社員だから、社会情勢には常に気を配らなければならないのかもしれない。それとも久々の日本だから、国内のニュースを仕入れるのに必死なのか。短い時間でつかんだ|特徴《とくちょう》を一言で表すと、三割ばっか肉をつけたさだまさしだ。案の定眼鏡、お約束どおり眼鏡、家族全員眼鏡。  さだまさしと高島礼子が|結婚《けっこん》すると、この村田健の頭脳と顔が生まれるわけか……。 「えーと」  ここにきて大問題が発生した。久々に会う父親を、どう呼んでいいのか|判《わか》らなかったのだ。村田の性格から考えて、親父・お袋の組み合わせはまずないだろう。とすると、とーさんかお父さんかお父様か、それとも高校一年にしてパパだとか……パパかも。パパかもなー。  おれは意を決してさだまさしに近づいた。 「あー……えーと……そのー……お久しぶりです」  何を言ってんだか。 「ん? ああ、ひさしぶり」  困ったことに声はフォークソングではなく、|迫力《はくりょく》の重低音だった。部長クラスの|威厳《いげん》に|圧倒《あっとう》されて、おれはまたしても変なことを口走った。 「さ、三ヵ月間のおつとめ、ご苦労さんです」  おいおいおい、|極道《ごくどう》の|妻《おんな》たちじゃないんだからさ。  親父さんは新聞から顔を上げて、自分の息子をまじまじと見た。古い形の眼鏡の奥で、人の良さそうな目が丸くなった。よーしここだ、この機を逃さずにコミュニケーションだ。大切なのは|攻《せ》めの姿勢だぞ。明るい黄色のソファーに座り込み、知識がないながらも会話を進めようとした。 「香港どうだった? |飲茶《ヤムチャ》うまかった? ジャッキー・チェンいた?」 「いつもどおりだが」 「そんなあ、いつもどおりなんて言わないでさ、三ヵ月も行ってたんだから、|土産話《みやげばなし》でも聞かせて……」 「ちょっと、健!」  |苛《いら》ついた口調で名前を呼ばれるが、|一瞬《いっしゅん》、誰のことか判らなかった。だがすぐに自分の立場を思い出し、声の主を振り返る。村田のお袋さんはダイニングテーブルの上に書類を広げ、ペンのキャップでそれをつついていた。 「よそで話してくれる? 集中できないから」 「え、ああ、すみません」 「母さん、仕事持ち帰りなんだよ」  |釈然《しゃくぜん》としない顔のおれに、親父さんが小声で教えてくれる。どうやら最近の働く母親は、仕事を家庭に持ち込む主義らしい。 「用がないなら自分の部屋で勉強すれば?」 「え、でもまだ夕飯が……」 「食べてこなかったの!?」  逆に|驚《おどろ》かれてしまった。何だよ、そういうシステムなら最初から言っておいてくれよ。三ヵ月ぶりに家族が|揃《そろ》うのだから、|皆《みな》で|食卓《しょくたく》を囲むものだと思い込んでいたのだ。特に料理の|匂《にお》いはしなかったけれど、これから|寿司《すし》でもとるのだろうと。 「いやだ、いつもなら何か食べてくるじゃない。帰りに好きなもの買ってきたり。急に夕食なんて言われても、ご飯|炊《た》けてないわよ」 「あっ! いい、いい、いいよ、コンビニ行ってくるから! ついでに何か買ってくる物ある?」  高島礼子の手料理を食べさせてもらおうなんて、おれの考えが甘かったのだ。  さっきと同じキャメルのコートに|袖《そで》を通し、マンションの|廊下《ろうか》に飛び出した。エレベーターに|駆《か》け込んでから、やっと大きく息をつく。家庭の事情って想像以上に難しい。これが何週間も続いたら、|気疲《きづか》れでどうにかなってしまいそうだ。  ポケットに鍵と財布があるのを|確認《かくにん》して、静まり返ったエントランスを|抜《ぬ》ける。マフラーを忘れた|頬《ほお》と首が、二月の冷たい外気に|撫《な》でられた。確か二百メートルくらい先の角に、コンビニの灯りが見えたはずだ。  こちらに向かって歩いてくる|人影《ひとかげ》があったので、おれは軽く頭を下げた。同じマンションの住人だったら挨拶くらいするだろう。おれが|身体《からだ》を使っている間に、村田の評判が落ちたらまずい。ちらりと視線を走らせると、相手は同年代の女子だった。制服の上にコートとマフラーまでしているのに、チェックのスカートの下は|素足《すあし》だ。見ているこちらが寒くなって、すれ|違《ちが》いながら思わず|肩《かた》を|疎《すく》めた。 「村田くん」  はい!?  またしてもいきなり名前を呼ばれ、声にならない返事をして足を止める。自分の|顎《あご》に人差し指を当てて、念のために確認する。 「おれ、だよね」 「そうだよ。|他《ほか》に|誰《だれ》がいるの?」  彼女は学生|鞄《かばん》を両手で持ち、おれの真っ正面に立った。寒風に頬を赤くして、肩までの髪を軽く|揺《ゆ》らしている。クラスに必ず一人いるような、委員長タイプの女の子だ。気の強そうな大きな目。 「今日、付き合ってくれる約束だったじゃない」 「え?」  それでそちらはどなた様でしたっけなどと、今さら|訊《き》くわけにもいかない。 「付き合ってくれるはずだったでしょ? なのにどうして先に帰っちゃったの? あんな短いメール一通だけで断られるなんて、村田くんにとってあたしってそんなに軽い存在なの?」 「ちょ、ちょっと」  委員長(仮名)さんはバッグに手を|突《つ》っ込むと、いかにもなサイズの箱を取り出した。シーズン特有の|可愛《かわい》らしいラッピングは、明らかに二月十四日用のチョコレートだ。 「明日は会えないから今日終わったら渡そうと思って、お礼も用意して待ってたのに!」 「ちょっと待ってくれ!」  ちょーっと待ってくれ!  委員長(仮名)さん、おれに少しばかり考える時間をくれ。バレンタインは明日だけど、会えないから今日渡そうと思っていたんだよな? 放課後に会えるよう約束を取り付け、チョコレートも用意していたんだよな? 一世一代の告白のために。  告白って誰に? チョコレートって誰に? 「村田くんってば」 「お、おれだよな!?」 「だからそう言ってるでしょ、とぼけないでよ」  どうしてこう次々と予想外のアクシデントが起こるのか。複雑な親子関係から逃れたと思ったら、次はバレンタイン前夜の告白だ。ていうか村田、お前こんな可愛い女の子に告白されそうだったのに、どうして約束すっぽかしたんだ!?  しかもおれは今、この|瞬間《しゅんかん》、彼女にどういう態度をとったらいいんだ!? 「答えてよ」 「う、答えろと言われても」  まさか「実はおれ村田健じゃないからー」という言い訳は通用しないだろうし、だからといって村田になりきって、勝手に返事をしてしまうのもまずい。男といえども異性の好みは千差|万別《ばんべつ》だ。おれ基準では|充分《じゅうぶん》に合格点でも、村田のタイプではないのかもしれない。たとえどんなに美人でも、気の強い女の子は絶対に|駄目《だめ》だとか……いやいやこれくらい可愛ければ、おれだったら性格には目を|瞑《つぶ》るけどな。  委員長(仮名)さんは|焦《じ》れたように|眉《まゆ》を寄せ、チョコレートの箱をぎゅっと|握《にぎ》った。 「村田くんっ」 「ごめん、無責任なことは、言えないんでッ……あっ」  もはや質問の内容さえ判らなくなってるおれの耳に、『サンダーバード』のメロディが聞こえてきた。同時に胸の内ポケットで、バイブ機能が働きだす。 「悪い、ちょっと電話」  体温で温まった|携帯《けいたい》を通して、別れたばかりの友人の声がした。 『渋谷?』 「村田っ!? ああ、じゃなかった、おれが村田だよ、おれが」  子供みたいに|嬉《うれ》しげな反応をしてしまい、おれは|慌《あわ》てて声を|潜《ひそ》めた。すぐ横にいる女の子は、二人が入れ|替《か》わっている事実を知らない。 『あーよかった、早くでてくれて。ここ寒いんだ、公衆電話なんだよ。すっごく重要なこと思い出したんだけど、家の電話で話せなくてねー。きみんちはとても居心地がいいけどさ、|酔《よ》ったお兄さんが電話の前でクダ巻いてるんだ。子機も使わせてくれないんだよー』  渋谷兄は現在積極的に彼女|募集《ぼしゅう》中で、連日連夜の合コン強化月間だ。 「相手にするな」 『相変わらず、おにーちゃんって呼べってごねてるけど』 「呼ぶな。あいつはギャルゲーのやりすぎなんだから」 『そう呼ばないと駅で買い|占《し》めたスポーツ新聞やらないって言ってる』 「やっぱ呼んどけ! それどころじゃない、それどころじゃないんだよ村……いや、ア、ミーゴ。今さあ、お前、大変なことになってるんだぞ」 『どうしたアミーゴ』  そっちは別に|普通《ふつう》に呼んで構わないんだけど。 「聞いて驚け! ていうか驚くな、冷静に聞け。おおお女の子に、告白されかかってる」  必要以上に声を潜める。こちらの|動揺《どうよう》と|困惑《こんわく》も知らず、友人は電話口で笑いだした。 『ああ、|亀井《かめい》だな? |怒《おこ》ってるんだろ』 「カメイ?」 『そう。亀井なんだっけ、下の名前。ああそうだ、シズカちゃん』 「それ政治家だろ」 『参るなあ、家の前まで押し|掛《か》けてきてるの? 相変わらず|悔《くや》しがりなんだから。メールで|連絡《れんらく》入れたのになあ』 「ばっか、お|前《まえ》ェ」  おれは右手で口元を|覆《おお》ってしゃがみ込み、亀井シズカちゃんに背中を向けた。 「……性格きつそうだけどかなーり可愛いぞ? メールなんかで断らずに、一、二ヵ月付き合ってみたらどうよ? バットは|振《ふ》ってみろ、球は受けてみろっていうじゃん」 『普通は言わないよそんなこと。でも可愛いだけじゃなくて頭も良さそうだろ。ていうかさあ、中二でクラスが|一緒《いっしょ》だったよ渋谷。きみは野球部以外誰も覚えてないんだね』 「|嘘《うそ》、おれ知り合い!?」  |苛《いら》ついた様子で|腕組《うでぐ》みしている少女を見る。おっしゃるとおり覚えていないが、確かに頭脳も|明晰《めいせき》そうだった。 「……やっぱ|記憶《きおく》にないや……危険を察知して本能的にスルーしてたのかな」 『だろうと思った。亀井はね、模試で僕と勝負したがってんの』 「勝負って、模試で? だって本番は大学入試だろ、その前に勝負して何になるんだよ?」 『さあねー。とにかく僕は告白されてるんじゃなくて|挑戦《ちょうせん》されてるんだよ。それがなかなか日程やコースが合わなくてね。今日の|塾《じゅく》内模試でならって言ってたんだけど、僕が三教科だけで帰っちゃったから』  帰っちゃうなよ!  説明するから代わってくれと言われて、|恐《おそ》る恐る|携帯《けいたい》電話を亀井に差し出す。 「代わってもいいけど、相手は誰よ」 「村……渋谷」 「渋谷って、あの野球バカの渋谷有利?」  これまで女子にどういう目で見られていたのかが、やっと|判《わか》った冬の夜。風は冷たかった。  亀井シズカはメタリックブルーの携帯を受け取ると、|怪謁《けげん》そうな顔で返事をする。整った眉が|不機嫌《ふきげん》そうに|歪《ゆが》むのを、おれはハラハラしながら見守るしかなかった。 「……それどういうこと?」  村田は一体、何を言っているんだ!?  段々声を|荒《あら》げていった亀井は、最後に挑戦的な単語を|吐《は》き捨ててから、おれに携帯を突き返した。地面に|叩《たた》きつけそうな勢いだったが、|辛《かろ》うじてそれを|抑《おさ》えたらしい。 「信じられない! あんたたちってそんなことになってたわけ!?」 「ど、どんなコトに」  確かに今、おれたちは入れ替わっていて、とんでもないことになってはいますが。  ジャイアン歩きで去っていくシズカちゃんを、のび太の気持ちで見送りながら、おれは電話の向こうの友人を問い|詰《つ》めた。 「何言ったーっ!?」 『別に何も。本当のことだけだよ。渋谷が……つまり僕がね、期末試験ピンチだから、|大慌《おおあわ》てで村田に|頼《たの》んだんだって。亀井より友人の進級の方が重要だから、断られても仕方ないだろうって』 「それだけか?」 『うん。あと、亀井が模試で何位になろうが知ったこっちゃないけど、渋谷が留年したら村田も責任感じるだろうからって。だって大事な友達だし、村田はおれを立派な王様にするって義務があるからねって』 「……お前、そんな|特殊《とくしゅ》な事情を、よりによっておれの口から……」  |肩《かた》を落とすおれを笑うように、電波|越《ご》しに|呑気《のんき》な声が聞こえてくる。 『別にいいだろー? 僕もきみも彼女と付き合う予定はないんだし。どんな風に思われたって』 「そういう問題じゃ……」  誤解された。|間違《まちが》いなく誤解されたぞ。どのように|解釈《かいしゃく》されたかは|微妙《びみょう》だが、王様なんて単語が混ざっていた時点で、正しく理解してもらえたはずがない。 『そんなことより渋谷、言っただろ、すっごい重要なことを思い出したんだ。きみの今後の人生に|関《かか》わること。今すぐ話さなきゃ。電話じゃ|埒《らち》が明かないから』 「判った、すぐ行く。んで今どこよ?」 『顔上げてー』  信号のない横断歩道の向こうには、街灯のついた電柱があった。その真下の|寂《さび》れた電話ボックスで、渋谷有利の姿をした村田が手を振っている。 『夕飯、ポトフだったよー』  あまりに脳天気そうな顔すぎて、我ながら情けなくなってきた。  もしもデータがあるのなら、今後の参考のために|是非《ぜひ》とも知りたい。過去に「入れ替わった」人々が平均何日間くらいまで|我慢《がまん》できたのかを。  入れ替わって|僅《わず》か数時間、おれたちは早くも限界に達していたからだ。 「自分でもさすがに気が短いなーとは思うけど」 「まあね。僕はけっこう居心地よかったし、渋谷の|身体《からだ》は軽くて|柔《やわ》らかくていいけどね。階段上るのなんかすごい楽。|前屈《ぜんくつ》で|爪先《つまさき》まで指が届いたのも生まれて初めてだよー」 「それもこれも日々のトレーニングの成果だが……一体お前は何を|試《ため》してみてるんだ」 「まあ色々。運動神経のいい身体って得だなあと思って」  おれとしても|脳《のう》味噌《みそ》のいい身体は|羨《うらや》ましい。でも|誰《だれ》がどう考えたって、この状態は不自然だ。村田の思い出したという重要な事情のことも考えれば、一刻も早く元どおりに|戻《もど》るべきだろう。戻れるかどうか定かではないにしても、とりあえず試してはみるべきだろう。  村田は未練たらたらみたいだが。お|袋《ふくろ》の料理がそんなに気に入ったのだろうか。だったら毎晩食べに来ても構わないからさ。  重要な事情というのは、こうだった。  おれの色あせたサファリジャケットのポケットに、かじかんだ指を|突《つ》っ込みながら彼は言った。 「|花嫁《はなよめ》選びがあるんだよ」 「はなよねえらびーぃ?」 「はなよね、じゃなくて花嫁。僕の記憶が確かならね。きみの国で。今はもうしっかり王様に就任したんだから、あそこでね。この季節の、ちょうど同じような時季に、大規模な花嫁選びが行われることを思い出したんだ」  店は|皆《みな》シャッターを閉め、駅へと向かう道はすっかり寂しくなっている。九時を回ると地元の商店街は、土曜出勤に|疲《つか》れた表情で家路を|辿《たど》るサラリーマンばかりだ。 「はー、嫁さんをねー。つまりあっちにもバレンタインみたいな行事があるんだ」 「|違《ちが》うよ」  集団見合いみたいな想像を|遮《さえぎ》られる。 「女性は複数だが、きみは一人だ。この一年で持ち上がった|縁談《えんだん》や|求婚者《きゅうこんしゃ》の中から、|魔王《まおう》陛下の花嫁を一人決めるんだよ」 「ま……おれの?」 「そう。魔王陛下の花嫁は誰だ!? っていっても何しろ相当昔の|催事《さいじ》だからね、今でも|執《と》り行われているのかどうかは、僕もちょっと記憶が定かではないんだけど……」 「|冗談《じょうだん》じゃない、おれの結婚相手はおれが決めるよ! ていうかまだ十六歳だぞ、憲法じゃ結婚できないんだぞ?」 「それはきみの後見役に言ってくれよー。それか|摂政《せっしょう》だか|王佐《おうさ》だか催事|司《つかさど》り役だかにさ」  両手を広げ天に向かって|訴《うった》えかけるギュンターが|浮《う》かんでしまい、足元の残り雪で|滑《すべ》りそうになる。彼ならおれの|歳《とし》など関係なく、どんどん話を進めそうだ。待てよ、あのフォンクライスト|卿《きょう》のことだ、|恥《は》ずかしげもなく純白のドレスを身につけて、候補者の中に|紛《まぎ》れ込んでいてもおかしくない。 「……ギュンターの……ドレス……」 「渋谷、あんまり|怖《こわ》い想像になっちゃだめだよ?」  |普通《ふつう》以上に似合いそうなところが怖いんだよ。 「とにかくね、この時期にうっかり女の子と付き合うことを決めちゃうと、それがそのまま花嫁選びに直結しちゃう可能性があるんだよ。折しも明日は|狙《ねら》ったみたいにバレンタインだし。きみに告白しようっていう女子が列を作ってるかもしれないし」 「……またそんな、非現実的な|嫌味《いやみ》を」 「何が。僕が何か|超《ちょう》魔術的なボケを言ったかい? だからねえ、このまま僕がきみの中に入っていたとしたら、告白してきた相手に返事するのも僕になっちゃうだう? 丸一日|一緒《いっしょ》にいたところで、早朝の電話|攻撃《こうげき》なんかには対応できないしね。その場合、無下に断っちゃうのも渋谷に悪いし、かといって厳密にいえば渋谷有利でない状態の僕が、勝手におっけーしちゃうのもどうかと思うし」  |突撃《とつげき》があってから心配すればいいような気もするけど。  もしも明日もこのままの状態だったら、村田もかなり|呆《あき》れるだろう。なにせ十六年間モテない人生送ってきたこのおれだ。チョコレートなんて親からしか|貰《もら》えない。 「しかも、きみ=僕の安易な返事のせいで、彼女が魔王の花嫁|認定《にんてい》されちゃう可能性だってある。向こうと地球では違うって反論したところで、きみの|妄信《もうしん》的な臣下の皆さんが|納得《なっとく》してくれるとは思えないしさ……渋谷、聞いてるー?」 「……そうだな、やっぱ早く元に戻ったほうがいい。この歳になって母親からチョコ貰うのも、かなりの精神的苦痛だもんな。同級生から|挑戦《ちょうせん》状|叩《たた》きつけられるほどモテモテな村田に、そんな体験させるのも悪い」 「モテモテって。僕だってバレンタインはハワイからカードが届くくらいのもんだよ」 「……村田、お前、いつの間にハワイに?」  いいなあ、きっと|常夏《とこなつ》の島の美女に違いない。 「僕は元々、ワールドワイドでグローバリゼーションだけど。さあ、渋谷、僕|等《ら》これからこの階段を一気に落ちないといけないから」 「ええ!?」  果てしなく遠い(ように感じる)駅の階段を見下ろしながら、おれは|生唾《なまつば》を|呑《の》み込んだ。立っているのは改札を出てすぐの場所だ。ここから遠い地面までは、目測で富士山八合目くらいはある。現場を目の前にして|動揺《どうよう》しているのか、色々な意味で計算が|狂《くる》っていた。 「いやだなあ渋谷、忘れちゃったの? 言ったろー? 入れ|替《か》わったとき以上の|衝撃《しょうげき》が加われば、けっこう簡単に元に戻るもんだって」 「待て待て、お前、同じくらいの衝撃って言ってたぞ。当時以上の力だなんて言わなかったぞ!? おれたち|踊《おど》り|場《ば》から落ちたのに、今いるの階段のてっぺんじゃねーか。こんなとこから転げたらとても無事じゃ済まないよ、ていうか本気で死んじゃうって!」 「死なない死なない。過去の例から実証されてるんだって。それに渋谷、そう軽々しく死を口にするもんじゃないよ」 「お前こそ軽々しく人を落とすなーっ!」 「|大丈夫《だいじょうぶ》大丈夫、もう|既《すで》に一度体験済みなんだし。目を|瞑《つぶ》ってりゃあっという間に終わっちゃう|絶叫《ぜっきょう》マシンみたいなものだから」 「やめろ早まるな村田それでもちきゅうはまわってるー」  どうあっても最上段からダイブしようというのか、村田はおれの|腰《こし》をがっちりホールドして、宙へと一歩|踏《ふ》み出した。ちょうど時刻表の谷間なのか、乗降客はちらほらとしか流れてこない。とはいえ常識的な人々の視線は、駅の階段で|抱《だ》き合って|喚《わめ》く高校生には冷たかった。  最近の若者はとか思われてるんだろうな。しかも|食卓《しょくたく》の話題にされるんだろうなあ。  待てよ、もし万が一、この中に知り合いがいたらどうしよう。帰宅|途中《とちゅう》のご近所さんがいたら、翌日はおれたちの話題で持ちきりだ。脳内スピーカーで、お|隣《となり》の|大野《おおの》婦人の声が|響《ひび》く。  あら渋谷さん、お宅の|息子《むすこ》さん大変だったわねえ。中学の同級生だった男の子と、駅の階段で抱き合って|心中《しんじゅう》ですって。  心中ですって心中ですって心中ですって。  ドルビーサラウンド|目撃《もくげき》証言。 「おおお落ち着け村田、おれたちこのままじゃ|物凄《ものすご》く後味の悪い心中|扱《あつか》いだぞ」 「あ、そーかーぁ」  明らかに考えていなかった声で、村田は頭に手をやった。冬なので|伸《の》ばしっぱなしの渋谷有利の|髪《かみ》が、慣れない仕草で|撫《な》でられている。不思議な感じだ。おれの髪を|触《さわ》るおれの指が、他人の|癖《くせ》で動いているなんて。 「それだと世間|体《てい》が悪いねー。お兄さんが都知事になれなくなっちゃう」 「……短い時間で何を聞かされたんだ」 「いやちょっと、人生設計をね。彼の計画だときみは石原軍団に入る予定らしいよ」  勝利は我が家を都知事ファミリーにしたいのか。 「となると、|誰《だれ》かに|偶然《ぐうぜん》を|装《よそお》って|突《つ》き落としてもらわないと……ああすいません、そこのお二人」  友人はきょろきょろと周囲を見回して、会社帰りらしき二人に目をつけた。|大袈裟《おおげさ》な動きで自分の顔に人差し指を向ける。男のほうは二十代前半で、フライトジャケットに|眉《まゆ》の上まで|覆《おお》うキャップ、|顎《あご》にはおれの|嫌《きら》いな|無精髭《ぶしょうひげ》まで|蓄《たくわ》えていた。ほとんどもたれ|掛《か》かるようにして|腕《うで》を組んでいるのは、胸の押し付け具合からして|恐《おそ》らく彼女だろう。|袖《そで》だけがニットになった|可愛《かわい》いジャケットを着ているが、何が|可笑《おか》しいのか大口を開けて笑ってばかりいる。目に痛いほど真っ赤に|塗《ぬ》られた|爪《つめ》が、彼氏の腕に食い込んでいた。  上気した|頬《ほお》と|潤《うる》んだ|瞳《ひとみ》、寄ってくる足どりも|心許《こころもと》ない。彼女のほうは相変わらずバカ笑いのままで、おれたちを指差して|叫《さけ》びだした。 「みてみてー、タンゴ、タンゴー!」  何がタンゴだ。こっちは踊るためにくっついてるんじゃないってのに。  ほろ|酔《よ》い加減、いや絶対にボロ酔い状態だ。九時過ぎでこの|醜態《しゅうたい》では、日付の変わる|頃《ころ》には人間を|超《こ》えているに違いない。 「村田、酔ってる|奴《やつ》に|頼《たの》むのはどうかなあ」 「|素面《しらふ》の人がこんなこと引き受けてくれると思うかい?」  そりゃそうだ。  でもと口ごもるおれを無視して、村田は眉キャップ男に全権を|委《ゆだ》ねてしまった。 「すみませんけど、今から僕|等《ら》にアタックしてくれませんか? 軽ーく体当たり程度でいいんですけど。えーと|怪《あや》しまれないように、なるべく事故を装って」 「あー? 事故を装って体当たりー? なんか暗殺みてえだなあー。どうするよ、こんなん頼まれたことねえし」 「どーするよって|訊《き》かれても、だってタンゴなんだもーん」  タンゴという単語がツボにはまってしまったのか、彼女はずっと笑いっぱなしだ。 「やっちゃおうよー。いいよ、やっちゃおうよー。タンゴ見たいタンゴ見たいタンゴ見たーい! えーいっ!」  と言うが早いか彼ではなく彼女のほうが、固まってるおれに|渾身《こんしん》の力をこめてぶつかってきた。それも愛する男の腕をがっちりと|掴《つか》んだままである。 「ちょっと待て! それは体当たりじゃなく、ぶちかま……わー!」 |身体《からだ》が|傾《かたむ》いたと思ったら、村田ごと宙に浮いていた。しかも落ちる寸前に|不吉《ふきつ》な言葉を聞いてしまった。冗談でなく不吉な一言だ。 「あたしも一緒にタンゴー!」  ええっと思ったときにはもう|遅《おそ》かった。  期待に反してダンゴになりながら、おれたちは四つ|巴《どもえ》で転落していた。  ……え……ねえ……ねえ……。  |靄《もや》のかかった意識の中で、おれはぼんやりと考えていた。  これはあれだ、兄貴が大好きな「ねえお兄ちゃん」ごっこだ。ねえねえ呼ばれて|振《ふ》り返ると、頬を人差し指で突かれる。やだー、おにーちゃんたらひっかかったぁなどと妹キャラが、ツインテール頭を|揺《ゆ》らして喜ぶ。ていうか兄貴はギャルゲーやりすぎ。妹キャラに夢見過ぎ。 「ねえちょっとーぉ、きみたち|大丈夫《だいじょうぶ》ーぅ?」  ここでやめろよしつこいそとぶち切れれば、大人げない兄を喜ばせるだけだ。相手が|飽《あ》きるまで、|徹底《てってい》的に|寝《ね》たふりだ。  やがて呼びかけるのを|諦《あきら》めたのか、若い男の心配そうな声がした。 「|駄目《だめ》みたーい、気が付かなーい。どーしようかー」  若い男が……いや、これは|他《ほか》でもないおれの声だよな。間延びしてはいるが、な。 「しょーがねえな。警察|沙汰《ざた》になんのもイヤだし、このまま|逃《に》げちまおうか」  警察!? 「えー、でもあたしこのままじゃ困るよー」 「いいじゃん、七歳くらい若くなったぜ」 「ほんと? 若いほうが好き?」  飛び起きようとして失敗した。背中と腰に激痛が走ったのだ。急に動こうとしても無理に決まっている。駅の階段を|天辺《てっぺん》から転がり落ちたのだから。そうだった、すがりの彼氏彼女にぶちかましを喰らわせてもらい、駅の階段を落ちたのだ。四人|一緒《いっしょ》に。 「ううーん……そうだ、む……村田は……」 「あ、気がついたかも」  おれはやっとのことで身体を起こし、|覗《のぞ》き込んでいた相手を見た。  渋谷有利だ。 「なに!?」  どうしておれがおれに覗き込まれているんだ!? どこか打ち所が悪かったのかと、|慌《あわ》てて両目を指で|擦《こす》る。指先が燃えるように真っ赤だった。 「うわ、なんだこれ? 全部の指から大出血してるよ! やばいどうしよう右投げ右打ちなのに……でも全然痛くないんですけど……あーっ!」  それもそのはず、赤いのは女性用のマニキュアだ。|何故《なぜ》おれの指が、このような美しさに。 「ちょっとー、|普通《ふつう》、血とか言うー? 一時間かけた|超《ちょう》力作ネールなのにィ」  覗き込んでいた渋谷有利が、いやにカマくさい口調で|憤慨《ふんがい》した。 「誰っ? ていうか、おれこそ誰ッ!?」  自分の身体から名前も知らない|香水《こうすい》の|匂《にお》いがして、こんなときにもかかわらず|鼓動《こどう》が早くなった。目ははっきり見える。ということは前回の事件のように、村田と入れ|替《か》わってしまったわけではなさそうだ。 「む、村田は? ああよかったそこにいたんだ」  しゃがんでこちらを見ている渋谷有利の隣に、|眼鏡《めがね》のフレームを|歪《ゆが》ませた村田健がいた。「おれたち」は必要以上に身を寄せ合い、しっかりと腕なんか組んでいる。  ん? ちょっと待て、色々と冷静になれ、渋谷有利。  目の前で友人と仲良さげにくっついているのは、確かにこのおれ自身だった。十六年間鏡で見慣れた渋谷有利だ。バッティング練習時ばかりだったから、ユニフォーム姿しか|記憶《きおく》にないけれど。  だったら今、それを見ているこの視力は誰のものだ? 一体誰の眼球だろう。 「……まさか」  まさか。  そのとき、|離《はな》れた場所に転がっていた無精髭の眉キャップが低く|唸《うな》り、|瞼《まぶた》を数回ひくつかせてからゆっくりと目を開いた。どう呼びかけていいものか迷っているうちに、男の口から疑問が|漏《も》れる。 「うー痛た……どうなった渋谷、うまく|戻《もど》れた?」  まさか村田?  それで、おれは、今度は……誰?  注記   文中に何度も繰り返し出てくる単語について、入力者注を繰り返し入れるのも煩わしいと思い、以下にまとめることにした。  掴   「掴」は底本では旧字「てへん+國」だが、unicodeしかないため、新字を使用した。  マ   単独で使われているカタカナのマ、および、マニメという単語のマは、○の中にマ。 底本:「宝はマのつく土の中!」角川ビーンズ文庫    2006(平成18)年5月1日初版発行 入力:suk 2006年05月01日作成 青空文庫ファイル: このファイルはインターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)のテキスト形式で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。